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麦茶の底でたまるもの

「愛してる、なんて誰にでも言える言葉よね」

 ソファーに背を沈めるようにして隣でドラマを観ていた姿子(しなこ)が呟いた。
 突然聞こえた声に横を向けば、彼女はじっと食い入るようにテレビを観ていた。面白くないのか、その顔からはすとんと表情が抜け落ちていた。

「じゃあ何がいいの?I love you.とか?」
「やめてよ。アメリカ人じゃないんだから」

 とぼけて言うと、姿子はふふっと鼻で笑った。これはバカにしているというわけではなくて、いつもの彼女の笑い方だった。引き笑いはからかわれるから嫌だと言う彼女は、できるだけ笑わないようにしている。それでも笑いたい時は、可能な限り声を出さないようにして笑う。そうしてあみ出したのが、声で笑う代わりに鼻の奥で笑うという手段だったらしい。だから、僕のさっきの発言はどうやら結構彼女のツボに入ったみたいだ。

 テレビでは、恋人同士が寄り添い合って睦言を囁き合っている。体と体がくっついて、その間には入る隙間がない。人一人分空けて同じソファに座っている僕らとはえらい違いだ。

「君行(きみゆき)なら何て言う?」

 テレビの画面を見たまま、姿子が問いかけてくる。

「聞いてどうするんだよ」
「んー、何となく?君行がどんな感じに愛を囁くのか気になって」

 テレビから視線を外して、僕の方を見てくる。その目は僕をからかうように見上げてきていた。

……月が綺麗ですね、とか?」
「パクリじゃない」

 ネットでつい最近見たばかりの言葉を言ってみる。すると姿子は、また鼻の奥を鳴らした。今度のは馬鹿にした笑いだ、たぶん。

「でもそれ、本当かどうか定かじゃないのよね」

 さすがは文学部近代文学ゼミ所属。この程度のことは知っていて当たり前のようだ。
 姿子はソファから背を起こすと、机の上に置いてあったコップを手に取る。そして、中にささっているストローを指先で弄りはじめた。

「典拠もないし、本当にそう漱石が言ったっていう文章も残ってない。たぶん、都市伝説に近いガセネタだと思ってるんだけど……

 そこまで言って姿子は、はたっと言葉を止めた。それにシンクロするようにストローで遊んでいた手も止まる。

……何の話だっけ?」
「『愛してる』なんて誰にでも言えるって話」

 僕が言うと、姿子はそうそうと言ってコップを手に取った。紅く口紅をひいた口を小さく開けてストローを咥え込む。彼女の喉の動きに合わせて、薄茶色の麦茶がストローを登っていった。

「だからね、私もう信用しないことにしたの。『好きだ』とか『愛してる』なんていうのは」

 ひとしきり飲んだ姿子は、ストローから口を離し、コップをもとの場所へと戻す。机に置いた拍子に、ストローがコップの中でくるりと回った。

「あいつもことあるごとに言ってきてさー。『好きだよ』とか『愛してるよ』とか」

 声色を真似しながら姿子は言う。数えるほどしか聞いたことはないが、意外とそれが似ていて、僕は思わず吹き出して笑った。

「ちょっとー笑わないでよ」

 不満そうに頬を膨らませながら姿子はびしりと僕に人差し指を向けてくる。

「人に指差すなって」

 手を伸ばしてそれを掴むと、ゆっくりと下に降ろした。触れた指先は枝でも掴んだかのように細くて頼りなかった。

「何よー生意気なやつ」

 そう言いながら姿子は、僕にじとりとした目で見つめる。彼女はアルコールが苦手だから今日も一滴も飲んでないはずだ。なのに、今の絡み方は普段の彼女とは大きく違っていた。

「ちょっと、眠たいんじゃない?」
「うるさいわねー、眠たくなんかないわよ」

 思わず肩へと伸ばした手は、触れる前に振り払われた。そして力なく腕を下ろした彼女は、イヤイヤをする子どものようにかぶりを振った。

「やっぱ、眠いんだって」
「だから、眠たくないってば」

 そう言いながら彼女は、ソファの上で膝を丸めた。そしてそのまま、ショートパンツを履いているためにむき出しになった膝小僧に額をつける。長い黒髪が音もなく垂れて彼女の横顔を隠した。白い肌と黒い髪のコントラストがどこか色っぽくて、見てはいけないものを見ている気分になる。

「何度も言ってたのよ?お前が好きだって、一緒にいたいって。こっちが聞いてもいないのに何度も何度も」

 脳裏に、姿子と一緒に大学の校内を歩いていた男の姿が過ぎった。茶色い髪をいつもワックスで綺麗にセットして、飾り気のないシンプルなシャツを好んできていた男。いかにも、モテる大学生といった雰囲気をしていた男。

 はじめっから気に食わなかったんだ。チャラチャラしてそうで、なんの苦労も味わったことがなさそうで、人に好意を向けられることを当然だと思ってそうで。
 だけど、姿子は隣で楽しそうに笑ってたから。告白を受け入れられた時、いつものお前はどこにいった⁉︎と言いたくなるほど飛び上がって喜んでいたから。だから……

「し、……
「あっいつ、その口で同じこと他の女にも言ってたのよ」

 姿子。名前を呼ぼうとした声は、そのまま喉の奥に滑り落ちていった。てっきり湿り気を帯びているものだと思っていた声は、全然そんなことはなくて、むしろ怒気に満ちていた。

「し、しなこさん……?」
「あいつ、本当に許せない。だいたい、『お前にはもっといい奴がいると思う』って何なのよ。じゃあそのいい奴てめーが探してこいよ。というか、気安くお前呼ばわりしてんじゃねーよ」

 ダメだ。これは完全に怒ってる。見れば、力なく傍に落ちていたはずの腕は、ぐっときつく握りこぶしをつくっていた。

「だいたい、私の目がおかしかったのよね。何であんなやつ好きになんかなったんだろ。よく見れば、根元の方とか黒いし、バカの一つ覚えみたいにいっつも白シャツ着てるし。いかにも、オレ大学生やってまーす!みたいな感じだし」

 ここまでノンブレスで言いきると、姿子はいきなりガバッと顔を上げた。そして、抱えるようにしていた足を下ろすと、その勢いのまま立ち上がる。

「決めた!私もう恋人選びで失敗はしない!ちゃーんと、浮気しなさそうな人畜無害そうな男探して付き合う!」
「なんか、言ってることすごいひどいと思うんだけど」

 ぼそりと呟いた声はどうやら聞こえてしまったらしい。思いっきり睨まれてしまった。

「君行だってねー、一度手厳しく裏切られてみたらわかるわよ。想像できる?あいつの誕生日にいそいそと料理作って待ってたら、浮気相手と一緒に帰宅した彼氏に遭遇した気持ち」

 熊にでも遭遇した方が驚かないわよ!と姿子は吠える。心なしか、その目がすわっているように見えるのは僕の気のせいだろうか。

「それは……想像できないけどさ」

 僕の言葉を聞いて、姿子は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。いや、そこ勝つべきところじゃないと思うんだけどという言葉は飲み込むことにした。僕だって自分の命が惜しい。

「とにかく、もう懲りたの。次からは黒髪で、ダサくても毎日白シャツじゃない服着てて、いつもはおどおどしてるけどやる時はやる人を好きになるの。絶対にあんなチャラ男なんか好きにならないの」

 決意表明のように言いきった姿子は、机の上のコップをガッと手に取った。さしてあるストローには目もくれず、薄い縁に唇をつけると、そのままグビグビと中の麦茶を飲みほす。

「ぷはあー!……君行、おかわり」

 親父か、と突っ込みたくなるのを抑えて、僕は差し出されたコップを受け取って立ち上がる。

「砂糖2杯入れて混ぜてねー」

 台所に向かう僕の背中を姿子の明るい声が追いかけてきた。

 大学生の一人暮らし。廊下に付けられているのは、台所やキッチンというには小さすぎるスペースだ。そこに立った僕は、持ってきたコップをシンクとガスコンロの間の狭いスペースに置く。そして、白いシュガーポットを手に取ると、言いつけ通り小さなスプーンで2杯砂糖をすくってコップの中に入れる。これは、彼女が麦茶そのままだと苦すぎて飲めないからだ。正直言って、砂糖入りの麦茶なんて飲めたものじゃないと思うが、なぜか彼女はこれを好んで飲んでいる。
 冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出すと、砂糖入りのコップに注ぐ。水流で砂糖がコップの中で舞い上がって、一瞬透明感のある薄茶色が白く濁った。けれど、次第にそれもおさまって、そこの方に砂糖が沈殿していく。
茶色と白色、二色に分かれた層をぼんやりと見ながら僕は、先ほどの彼女の言葉を思い出した。

 なあ、姿子。僕は裏切られることなんてないんだよ。だって、誰かと付き合うなんてそんな状況になることがないんだから。

 本当は、泣いてるのかと思った時、言おうかと思った。君が嫌悪しているありきたりな言葉で、伝えようかと思った。だけど、そんなことをしたら君は、また裏切られてしまうだろう。気を許して無防備に、何の警戒もなく家に上がりこんでくる君だけど、そんなこともうなくなるだろう。ひょっとすると、僕から離れていくかもしれない。それだけは耐えられないから。

「君行ー、まだー?」

 閉じた扉、狭いワンルームに続く扉の向こうで姿子の声がする。今行くーと答えながら僕は、ささっているストローで底から思いっきり中を掻き回した。
 浮遊する砂糖。一瞬だけ麦茶と混ざり合う。けれどそれは、すぐにまたもとの二層に分かれてしまった。




 

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