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庭先桜に約束

 庭の桜に花が咲いた。と言っても、うちの庭は大人の大股四歩分くらいの広さ。木なんて植えるスペースはもちろんない。咲いたのは、花壇の片隅に置いた鉢植えの桜。私が生まれた時に父が買ったというそれは、チューリップと並んで、薄桃色の花を風になびかせている。

「今年のうちはどう?」

 

 飴玉を転がすみたいな声に隣を向く。桜の花弁をことこと煮詰めて、砂糖をまぶしたような瞳と視線が合う。瞬間、甘やかな両のそれは柔く細まる。

 

「きれいだよ。でも、いつもより遅くない?」

「それはしゃーないやん。今年冬あったかかったんやから」

 

 これでも頑張ったんよ? 亜麻色の髪から覗く耳に触れながら彼女は呟く。畳んでは戻し、畳んでは戻しされる白い耳。それは、彼女がふて腐れた時にする癖だ。

 

 春に生まれたから咲良。なんてロマンチックなのか単純なのかわからない理由で名付けた父は、私の一歳の誕生日に桜の鉢植えをプレゼントした、らしい。物心ついた時には、庭にはいつも藤色の鉢植えがあった。そして、毎年春になると、桜色より少し濃い瞳をした少女が庭に現れている。手毬、という名前の彼女は桜の精だそうで、関西弁なのは奈良の植木屋で育ったかららしい。

 

「でもまあ、引っ越しまでに間に合ってよかったよ」

 

 満開にはほど遠い桜を見ながら呟く。花盛りになれば八重咲の花が毬のように咲き誇る木は、まだ蕾の方が多い。けれど、淡紅色の蕾はふっくら膨らんでいて、見頃が近いことを伝えている。

 

「明日やもんね」

 

 手毬の呟きに、うん、と頷く。段ボールが山積みになった自室が脳裏に浮かぶ。

 

「いけるんかー? 一人暮らし、しかも関西やで?」

「大丈夫でしょ。いざとなったら、カップ麺でのりきる」

「そこはせめてレトルトカレーにしな」

 

 桜の精もレトルトカレーとか知ってるんだ、という驚きと、どっちの方がまだ体に良いんだろう、という疑問。頭に浮かんだそれは、すぐにどこかへ行ってしまう。片頬だけを上げて笑った顔が、楽しそうなのに、あまりにも寂しそうで。そう見えてしまうのは、私の願望だろうか。

 

「なあ、やっぱりうち連れていかへん?」

「ええー」

「鉢植えやから、連れてくの簡単やん」

「どこに置くのよ」

「ベランダとか」

「洗濯物干せなくなるじゃん」

 

 新しい部屋の、申し訳程度についたベランダを思いだす。食い下がってくるかと思ったけれど、手毬は「そうやんなー」と意外にもすんなり引き下がった。

 塀の向こうで、車が走る音が聞こえる。ついで聞こえたのは、自転車のブレーキ音と犬の吠える声。向かいの吉田さんの息子さんが帰ってきたのかもしれない。慣れ親しんだ、何でもない音。なのに、今日でお別れかと思うと、妙に耳に入ってくる。

 

「しばらくお別れかー。寂しいなあ」

 

 隣で手毬が呟く。短かな着物の裾から伸びた棒切れのような足は、ぷらぷら揺れている。

 

「そうだね」

「うそやー。咲良は嬉しいんちゃうん?」

 

 ずっとここ離れたい言うてたやん。拗ねた声が耳を擽る。横を向きたくなって、でも向けば抑えた気持ちが飛び出す気がして。何もできずに目を俯かせる。沓脱石の上の、色の褪せたサンダルに包まれた足先が視界に映る。

 

……嬉しいと思ってたんだけどね」

 

 ずっと、ここが嫌だった。どこの誰がどこに勤めてるとか、学校での成績がどうとか、なぜか知ってるご近所。やたらと広いコンビニの駐車場。最寄のショッピングモールまで自転車で三十分。映画館に行くのなんて、電車で一時間もかかる。観光地なんてもちろんない、何もないことしかない田舎。高校を出たら、県外に行こうってずっと思っていた。なのに。

 

……なんか、やっぱり寂しいんだよ」

 あとも残さず、何の未練もなく出て行けると、そう思っていた。なのに、いざ離れる日が近づくと、寂しさが募って仕方がない。後ろ髪なんて笑っちゃう。髪全部が引っ張られて、気を抜けば、ここに留まりたい気持ちが湧き上がる。

 咲良。名前が呼ばれる。振り向く前に、腕を強い力で引っ張られた。そのまま倒れ込んだ上体は、見た目より柔らかな体で受け止められる。

 

「そんなん当たり前やって。ずっとここにおったんやもん」

 

 さびしいよなあ。溶けかけの飴玉みたいな声が頭上から降ってくる。静かに鼓膜を震わせたそれは、そのまま胸の内へ舞い落ちて、瞼の縁を潤ませる。

 鼻先を、甘い、なのに澄んだ香りが擽る。頬を寄せれば、雪解け水のように清かな体温を感じた。少し低めのそれは、体中に押し寄せていた寂しさの波を鎮めていく。

 

……寂しい」

「うん」

 

 でも行くんやろ? 静かな声が耳を打つ。頷けば、手毬はそっと私の髪を撫でた。

 

「相変わらず癖っ毛やなあ」

「うるさい」

「こことか寝癖あるで?」

 

 こんなんで一人でやっていけるんか。呆れた、けれどどこか温かな声で手毬が呟く。連れて行ってとは、彼女はもう言わなかった。私も何も言わない。髪を撫でる優しい手つきに、そっと目を閉じる。

 

「なんか猫みたいやな」

「かわいいでしょ?」

「そういうことにしといたる」

 

 からからと、春の陽みたいな笑い声が響く。遠くで、鳥の鳴く声が聞こえた。音程の合っていない、変なところで上がる声。きっと新人のうぐいすだ。

 

……ねえ、手毬」

「ん?」

「私、いつかここに帰ってくるね」

 

 手がぴたりと止まる。戸惑った気配が伝わってくる。聞こえたのは、ええん? とどこか心配そうな声。

 

「うん。いつになるかはわからないけど」

「ええー卒業したらとかやないん?」

「うん。五年後かもしれないし、十年後かも。下手したら、おばあちゃんになった時かも」

 

 働き口少ないからね、と言えば、意外と事情通らしい桜の精は、たしかにと言って笑った。

 

「でも、いつかきっと戻ってくるから。……それまで待っててくれる?」

 

 返ってきたのは沈黙。撫でる手のひらも戻ってはこない。

不安になって顔を上げようとした時、手毬は抱きしめる力を強くした。突然のことに、口から変な声がもれる。

 

「あったりまえやん。うちをなんやと思ってるん? 日本人みんな大好きな桜様やで?」

「それ関係あるの?」

 

 妙に自信満々なのがおかしくて、気づけば笑い声がこぼれだしていた。緩まった腕に顔を上げれば、どこまでも甘い色の瞳と視線が絡む。

 

「待ってるよ。おばあちゃんになっても、春になったらまた会おう」

 

 丸い瞳が細くなっていく。小さな桜色の唇は弧を描く。持ち上がった白い頬。少し覗く真っ白な歯。毎年見る、大好きな笑顔。それに私は、何年経っても、どこを巡り巡っても、きっとまたここに帰ってくる。そう誓った。

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