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桜のない場所で

 お花見なんていったって、皆の視線が向くのは地上の青いブルーシート。その上にあるお弁当と、缶やペットボトル。

舞い落ちてくる花びらを邪魔そうにのけて、厚焼き卵をぱくりと一口。これこそ花より団子。そんな意地の悪いことを考えながら、私もノンアルコールの缶に口をつける。

 甘ったるいぶどう味に自然に眉が寄る。花見の席の飲み物は酒飲み仕様になっていて、アルコールの入っていないものはこれしか買われていなかった。食事に合わなくても貴重な水分だ。自分に言い聞かせるようにして、また一口飲む。

 ゼミで定期的に行われる親睦会、という名の飲み会。春だからという理由で、今回はお花見になった。大学近くの大きな公園は、同じような目的のサークルやゼミで結構な賑わいだ。

 酔ってきて、現代における文学の意義を教授が熱く語り始める。せっかくの教授のご高説というのに、皆好き勝手に喋ってばかりだ。もっとも、酔うと毎回する話なので、聞くのはもう片手で足りない回数になっている。気持ちはわからなくもない。それに、酔っているせいか、教授本人も聴衆がいないことに気づいていないみたいだった。

 甘さを覚悟しながら缶を傾ける。けれど、口の中には予想した味は広がらなかった。あれ、となって缶を振れば、何も音がしない。

 空になったと知っても、さして嬉しさは湧かなかった。何せ、おかわりに選べるのは同じ味のノンアルコールのみ。それでもないよりはましなので、シートに手をついて立ち上がる。

 皆が座ってできた輪を回り込んで、芝生の上のクーラーボックスに近寄る。そしてふと違和感を感じた。何だろうと思って、一人足りないことに気づく。トイレだろうかと辺りを見回せば、少し離れたところにあるベンチに、ぽつりとある人影を見つけた。

 少し迷って、クーラーボックスの中から缶を二本取り出す。溶けかけの氷で濡れたそれは、ぼやけた冷たさを掌に伝えてきた。

 散乱する靴の中から白いスニーカーを探し出し、足を突っ込む。急に立ち上がってふらつく体を支えるように二、三歩前へ。その勢いのまま、ぽつりとあるベンチに近寄った。

「何か飲む?」

 

 背後から声をかける。桜の木のないそこは、人気もなくがらりとしていて、思いの外声がよく通った。勢いよく振り返った彼は、私の姿を見とめると、肩にこもった力を抜いた。

 

「いいの?」

「うん。まあ、ぶどう味しかないんだけどね」

 

 お酒飲まなかったよね? 差し出しながら問いかける。返事はないまま、彼は頭を少し下げて缶を受け取った。

 彼が横に少し身をずらす。少し間をおいて、空いたスペースに腰を下ろした。スカート越しにほのかな温もりが伝わって、裾を直すふりをして座り直す。その間に、彼は缶を開けていた。

……あま」

「だよね」

 

 目をすがめ、甘みを逃すように口を開ける彼に笑い声をもらす。彼はもう一度「甘い」と呟いた後、缶を傾けた。私もプルタブを引っ張り、缶に口をつける。

 

「ここ、桜ないけどいいの?」

 

 並んだまま、しばらく無言で缶を傾ける。そうして沈黙が気になってきたところで問いかけた。彼は、いい、とだけ呟いて、また飲み口に触れた。少し反らされた喉に、くっきりと喉仏が浮かぶ。薄らと血管が透けて見え、肌の薄さを知った。

 

「まあ、花なんて見てないようなもんだもんね」

 

 喉の動きに合わせ上下する出っ張りから目を逸らしながら言う。うん。返ってきたのはおざなりな声だった。

 生返事が不思議になって隣を見る。彼は膝の上で缶を握ったまま、足元を凝視していた。視線の先を辿って、薄い花弁が一枚迷い込んできているのに気づく。

 

……桜はかわいそうらしいよ」

 ぽつりと彼が呟く。吊りがちの目は、地面の花弁に向けられたままだ。初めてまじまじと見る横顔は、長い睫毛に彩られていた。下向きに生えたそれは、庇のように彼の瞳を覆い隠す。

「かわいそう?」

「そう。春になってやっと思い出してもらえるからだって」

 

 でもさ。乾いた声が続きを紡ぎかけてやめる。砂を踏む音が聞こえ、視線を落とす。紺色の靴先が薄桃の側にあった。

 

「思い出してって毎年言う。それってすごくうっとうしいと思わない?」

 

 細身のジーンズに包まれた足が持ち上がる。花弁に振り下ろされかけたそれは、けれど何にも触れぬまま地面へと戻っていった。

……そういうの、いじらしいっていうんじゃない?」

「うっとうしいだよ」

 

 本当うっとうしい。溢すように口にされた言葉は、密やかに温度を伴っていて。その意味に反した響きを私に届ける。

 突風が、迷い込んだ花弁を吹き上げる。誰かの、シートが! の声。桜が揺れる音。砂が転げる音。とりどりの音の洪水の中で、彼の声だけが聞こえない。血色の悪い唇が紡ぐ四文字を、ただ見ていることしかできない。

 

「行こっか」

 

 風がやんですぐ、彼が立ち上がった。飲み干した缶が、べこりと音をたてて潰される。

 太陽が彼の顔へ日差しを投げかける。丸みの少ない頬がさやかに光る。猫のような瞳が潤んで見えた。

 それって砂埃のせい? 聞けないまま、知れないまま、立ち上がって後を追う。

 ちゃんと来ているか確かめるように、彼が離れた距離から振り返る。ゆるりと波打つ前髪の下で、アンバーのような瞳が瞬く。消えるように浮かんだ笑み。心拍が微かに震える。全部走ったせいにして、先行く白い背中を追いかけた。

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