
来て行く春
今年は雪が降らなかった。だから雪解けもない。なのに春は着々と近づいてきていて、風に混ざりだす花の香りが煩わしい。
春は苦手だ。町中が浮かれ出して、漂う空気さえ色づいて見える。新生活、門出、新しい出会い。そんな希望に満ちた言葉が溢れて、何も変われずにいる私は、勝手に責められている気分になる。春を楽しむような暖かで柔らかな色も、自分には到底似合わなくて嫌になる。
由紀子ちゃん。
水に浸した花びらのような声が耳を打つ。顔を上げれば、姉の遙子がこちらを振り返っていた。波風にさらわれそうになる髪を手で押さえた彼女は、にこりと微笑んでいる。
「ごめんね、学校帰りに」
ありがとう、と付け加えられた言葉がこそばゆくて視線を落とす。逸らした先にはクリーム色の紙袋があった。姉の手に握られたそれは、さっきまでいた洋服店のロゴがプリントされている。
「いいよ、別に。どうせ暇だし」
口から出た声は男子のように低く掠れていて、言葉をより冷たく彩る。無愛想過ぎたと思ったけれど、姉は変わらず笑みを浮かべたままだった。
「……でも早くない? 入学式のスーツ買うの」
何となく決まりが悪くなって、ふと頭に浮かんだことを言ってみる。姉はたしかにねと笑った後、手元の紙袋に視線を落とした。
「でも、おかげでとびっきり好きなのが買えたから。気に入ったのがなくなったら嫌だったんだ」
希望の象徴のような柔らかい色。その中には、さっき私と姉が二人で選んだスーツが、丁寧に畳まれ入れられている。入学式の定番は黒かグレーだと言う店員を押し切って選んだ、ベージュ色のスーツ。シンプルな白いブラウスを合わせる予定のそれは、きっと姉によく似合うに違いない。
「そんなこと言ってさ、もし落ちてたらどうするつもり?」
わざと嫌らしいことを聞いてみる。「落ちる」なんて、二週間後に合格発表を控えた受験生には、一番控えないといけない言葉だ。けれど姉は、気にした風もなく目を細めた。
「ええー、でも自信あるからなあ」
大丈夫だよ。続けられた、傲慢で自信に溢れた言葉に、私は目を伏せる。古びたローファーが視界に入って、すぐ傍にあった小石を蹴飛ばした。吹けば飛びそうな大きさのそれは、右に跳ねて灰色の堤防に当たった。
「……すごい自信家」
「ええ、そんなことないって」
「あるある。自分に自信がないと、入学式にベージュのスーツなんて選ばないって」
「えーでも、由紀子ちゃんもこれが良いって言ってたのに」
もしかして似合わないかな? 心配そうな声に顔を上げる。少し離れたところにいる姉は、薄い眉を垂れさせながら、見下ろした自分の体を眺めまわしていた。
つい一昨日卒業式を終えた姉は、見る間に変わった。身内贔屓無しにもともと綺麗ではあったけれど、高校の、あの修道服のようなセーラー服を脱ぎ捨てて以後、多分に鱗粉を纏った蝶のように軽く、煌めいている。三月末まではまだ高校生だなんて嘘だ。もうとっくに彼女は、四月の、この寂れた町から遠く離れたところにいる彼女へと羽化している。
「似合うんじゃない、たぶんね」
「もう、いい加減だなあ」
波音の響く中でも紛れない、さやかな笑い声が耳を擽る。乾いた風が、ペールグリーンのロングスカートをひらめかす。早春といってもまだ冬の気配の残る中で、どこかくすんだ町並みで、彼女だけが春を纏って見える。
「でも、由紀子ちゃんに会えないのは寂しいな」
くるりと背を向け、歩きだした姉が呟く。「嘘だあ」と茶化した声はどこまでも本心で、だからこそ彼女には伝わらない。
「ほんとだもん。そうだ、由紀子ちゃんも、来年県外の大学受けようよ」
そしたら会いやすくなるし! とっておきの考えを思いついた子どものような顔で、姉は首だけで振り返る。夕陽を映し込んだ目は、朝露を含んだ若葉のように輝いていて、その濁りの無さに喉が締まる。そうだね、と言った声は木枯らしのように私の身に巻きついて、浮かべた笑みを凍らせた。
軽やかな笑い声を残して、姉が前へと向き直る。低めのヒールのたてる音が少しずつ離れていく。クリーム色を揺らしながら歩く背中に、私はこの先雪解けのないことを知った。