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水しぶきあげて夏はゆく

 もう入れないねと言って、隣に座る彼女は水につけていた足を宙へと浮かせる。紺色のスクール水着から伸びる白い足を滑った滴が、ぽちゃんと音を立てて落ちる。プールの底を映して青い水面には、丸く小さな波紋ができた。

「温水プールに行けば?」

 

 私が言えば、彼女は太陽でつやりと光る頬をぷくりと膨らませた。それはもう大層不服げに。

 

「わかってない! 外のプールだからいいんじゃん!」

 

 言うやいなや、彼女は浮かせていた足を水面へと振り下ろす。叩きつけるようなそれに、派手な水しぶきが上がった。

 

「うわ! ちょっとやめてよ」

 

 顔にかかった水滴を慌てて手の甲で拭う。えんじ色のハーフパンツには、丸い小さなシミができていた。

「へへーおすそわけー」

 

 何のだなんの、と思いながら、前かがみになって手を水面につける。そして水を掻くようにして、彼女の方へと思いっきり上げた。空中に散った滴は、陽の光を受けてきらりと輝く。

 

「つめたっ!」

 

 仕返しのつもりでかけた水は、ほとんど効果を発揮しなかったらしい。水がかかった彼女は、変わらず楽しげな笑みを浮かべたままだった。なんとも張り合いのない反応に、勝手に肩透かしを食らった気分になって、私はおもむろに上半身を起こす。

 今年最後のプールだと宣言されて始まった体育の授業は、授業というより遊びの時間と化していて、生徒たちは用具庫から思い思いの道具を出してきてははしゃいでいる。最高気温二十七度だという今日は涼しいと寒いの間のような風が吹いていて、プールに入るには寒くないか? と思う。現に、ここから見える人の中には、ちらほら唇を青紫色に染めた人もいる。けれど、どの人も笑顔を浮かべ夢中で遊んでいて、夏を惜しんでいるみたいだと思った。あれだけ暑い暑いと不満を漏らしていても、過ぎてしまうのは寂しいらしい。不思議と、夏にはそう思わせる何かがある気がする。

 

「にしても、ほんと早かったよねー。もう九月だよ、来週には文化祭だよ? 早すぎない?」

「それが終わったらすぐ中間だね」

「そうーそしたら、すぐ冬がきて、次はいよいよ」

 

 受験生。そう言った声が重なって、どちらからともなく顔を見合わせる。ハモった、と言ってはにかむ優に、私も笑み返す。

「早いよね、本当に」

「ね、どこの大学受けるかなんて決めてないよー」

 

 後ろに手をついて、優は水につけた足をばたつかせる。小さな水しぶきが無数にたって、彼女の足元だけ白い花が咲く。飛んできた水に冷たいと口にすれば、優は口の片端だけ上げて笑った。

 

「おすそわけー」

 

 だからなんのよ。そう言いかけた言葉は、遠くで鳴ったホイッスルに遮られた。視線を向ければ、鬼のおかむーと恐れられる岡村先生に、プールサイドを走っていた男子が怒られたところだった。

 元気だなと妙に感心する。こっちは風邪気味で、ただ見てるだけしかできないのに。そんなお門違いな不満を覚える。隣から小さなくしゃみが聞こえたのは、それと同時だった。

 横目で盗み見れば、寒くなったのか、優は水から足を上げ体を縮こませるようにして座っていた。三角座りにした足の膝裏から水滴が滑り落ち、地面に黒い円を作っている。

 

「もう大学かあ、早いなあ」

「そうだね」

「なんかやだな、このまま高校生でいたいー」

 

 ぼやくように口にした言葉に、微かな違和感を覚える。優のことだから、花の大学生! と言って喜ぶところかと思ったのに。

  不思議に思った気持ちのまま、なんで? と問いかける。優の方へと顔を向ければ、彼女は驚いたように目を見開いていた。

「え、だって、大学は加菜と離れ離れじゃん」

 

 至極当たり前だと言わんばかりの言い方に、思わず言葉に詰まる。自分でも薄々予感してはいたことだけれど、改めて、それも彼女の口から聞くと胸が軋んで仕方ない。

 私たちは家がマンションの隣同士の、いわゆる幼馴染というやつで、幼稚園も小学校も、もちろん中学校も一緒だった。学力の違いから、高校は別々のところになりかけたけど、結局私がレベルを一つ下げ、優が一つ上げることでこの学校に進んだ。

 クラスが離れたこともあったし、喧嘩をして一週間口をきかないこともあった。それでも、物心ついた時からずっと、気づけばそばにいるのは彼女だった。けれど、これからはそうもいかないこともわかっていた。

「加菜はきっと県外でしょ? うちの県、文系で有名な大学ないし。私はたぶん県内だから、なかなか会えなくなるよね」

 

 曲げた膝に優は顎をのせる。深爪がちの指は、手持ち無沙汰そうに自身の足の指をいじっていた。

 うん、と頷いた声は、別の人のもののように固く平坦で、思わず目を瞬かせる。

 

「どうかした?」

 

 優は膝から顎を離し、心配そうにこちらを見る。見つめてくる瞳は三白眼気味で、真白に浮かぶ黒目は空に一つだけ浮かぶ太陽みたいだった。

 中学三年生の時、志望校を伝えた時の優がよみがえる。今より一つレベルが上の、県内でも一二を争う進学校の名を告げた時のこと。あの時優は目を見開いて、黙っていたかと思うとしばらくして、今から何時間勉強したらいける? と聞いたのだ。震える声で、けれど真っ直ぐに。

 これからも一緒だと信じて疑わない。私の行くところには自分もいるし、自分が進むところには私がいる。そんな、見方によってはわがままとも傲慢ともとれる確信が、嬉しくて、愛しくてたまらなかった。

「なんでもない」

 

 応えた声はいつも通りで、少し安心する。もう少し、気がつかないままでいてくれたらよかったのに。けれどそんなこと言えるはずもなくて、そっか、と笑みを咲かす彼女を見つめ返すことしかできない。

 こら! 鈴井! さぼるな! 岡村先生の大声が響く。

 遊んでるだけなのに、一体何をさぼるのかと思ったけれど、名指しされた隣の本人は、はーい! と元気な声をあげている。

 

「仕方ない、行ってこよっかな」

 

 そう言って優は、滑り込むようにプールの中へ入っていく。静かに上がった水しぶきが足に触れ、ついたそばから風が乾かしていく。それは昨日までの熱をはらんだ風とは全然違っていて、夏の終わりを嫌が応にも感じさせた。頭上に堂々と座る太陽も、薄もやがかかったみたいにどこか丸い光を放っている。

 

「かなちゃん、私がいなくても寂しがらないのよ?」

「むしろ静かでいいよ」

 

 軽口に軽口で返せば、子どもに言い聞かせるような声音は不満げな音に様変わりする。ちぇーっと口を尖らせる優に、私はひとつ笑みを落とす。

 

「なーんか加菜ってそうだよねー」

「なにが?」

「私がいなくても平気っていうか……大学行ってもすーぐ新しい友達つくってそう。たった一人の幼馴染ほっぽってさ」

 

 平気なのは優の方だ。そう思ったけれど、口にはしない。言ってしまえば、本当にそうなってしまう気がした。寂しいと口にできる人ほど、すぐに寂しさを忘れてしまう。だから、形にできない私はきっといつまでも寂しいままだ。

 

「まあ、たまには相手してあげてもいいよ?」

「うわ、言ったな! こうなったらしょっちゅう遊びに行ってやるんだから!」

 

 精一杯の強がりを、優は無邪気に受け取って、覚悟しときなよ! と胸を張る。そしてくるりと背を向けたかと思うと、クロールで向こうに向かって泳ぎだした。

 同じグループの子たちがいる方へ遠ざかっていく紺に包まれた背中。白い水しぶきを咲かせるその姿を見送りながら私は、暑いなとひとりごちる。

 揺らした足がぱちゃりと小さな水しぶきをあげ、光を透かした。

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