
慣れるまでこれから何度も
「奥さん、これはどの部屋に置いておけばいいですか?」
背後から、引っ越しさんに声をかけられた。反射的に振り返りながら私は、はて? と首を傾げる。奥さんとは一体誰のことだろう。
誰か別の人に向かって言ったのかと思って、辺りを見回してみる。けれど室内には、目の前にいる人を含めた三人の引っ越し屋さんと彼しかいない。奥さんと呼ばれるような人はどこにもいないのだ。
聞き間違いかな? そう思った時、もう一度引っ越し屋さんは「奥さん」と言った。今度は、きちんと私の目を真っ直ぐに見て。それで、やっと私に向かって呼びかけていることがわかった。瞬間、顔に一気に熱が集まってくるのを感じる。
「お、奥さんですか?」
「はい、そうですが」
違いましたか? と不安そうに尋ねられ、私は慌ててかぶりを振る。
「違いません……!」
「よかったー。この段ボール、どこに置けばいいですか」
安心したように顔をほころばせた引っ越し屋さんは、抱えた段ボール箱をちらりと見る。箱の側面に「衣類」と書いてあった。それを見た私は、寝室へと引っ越し屋さんに告げる。
「了解ですー」
重たい荷物を持っていることなど感じさせない軽い足取りで、隣りへと向かって行く。青いジャンパーに包まれたその背中を見送りながら、思わず笑みがこぼれそうになってしまった。いけない、いけない。ちゃんと真面目に片づけしないと。そう思って、作業に戻ろうとしたそのとき、コツンと背後から頭を小突かれた。
「なーに、にやけてるんだ」
叩かれた頭に手をやりながら振り返る。そこにいたのは、予想通りの人だった。暑いのかシャツの袖口を捲った彼は、腰に手をあててにやりと笑っている。
「もう、にやけてないから」
「嘘だな。完全に口元緩んでた」
そう言って彼は、だらしなく口を開けて目を細めてみせる。もしかしなくても、それは私の真似なのだろうか。だとしたら、ものすごく腹が立つ。
腹立ちまぎれに足で彼のふくらはぎを蹴っ飛ばす。手加減したつもりだったのだけれど、思いの外強かったらしい。彼は、痛っ! と声をあげた。
「暴力反対だぞ!」
「変なことするからよ。それに、すねじゃなかっただけ優しいと思って」
しゃがみこんで、蹴られた箇所をさすっている彼を見下ろしながら、私はふんっと鼻を鳴らす。彼の切れ長の目は、憎々しげに私を見上げていた。
「……暴力女」
ぼそりと呟かれた言葉。それに気づかない私ではない。
「うるさいです」
そう言いながら、いつもよりも低い位置にある黒い頭をはたく。天然パーマの柔らかな感触が、手のひらに伝わった。猫っ毛な彼の髪は一本一本が綿菓子のようにふわふわで、女子としては羨ましさしか感じない。なんだか憎らしくなって、両手で思いっきり頭を撫ぜてやる。
「ちょっ! 何やってんだ!」
「なんか悔しいの!」
「だからってやめろ!」
困惑したような声が聞こえ、両方の手首を掴まれた。決して跡は残らない。だけど、動かすことはできない強さ。その絶妙な力加減に優しさを感じてしまう。なんだか気恥ずかしくなってしまって、彼の掴む力が緩んだ隙に、つむじをぐいっと押してやった。ハゲたらどうする! なんて声が聞こえたけど、そんなこと知らない。
引っ越し屋さんが、作業を終えたことを報告する声が響く。見渡せば、お世辞にも広いとは言えない部屋は、段ボール箱でいっぱいになっていた。
「では、ここにサインをお願いします」
差し出された書類とペンを受け取り、空欄にサインをしようとする。名前を書きかけて、ふと手が止まった。佐伯知菜(さえきちな)いつも通りそう書きかけて、危ない危ないと思い直す。ふっと一回息をついた私は、ペンをもう一度握り直して書類へと向かう。初瀬知菜(はつせちな)。今度はきちんと書けた。
「ご苦労さまでした」
「いえー、ありがとうございました!」
作業をしてくれた三人の声が一斉に響く。帰っていく引っ越し屋さんたちを見送るため、彼、初瀬くんと一緒に玄関先まで出ていく。
振り返って一礼をした引っ越し屋さんたちが、玄関扉の向こうに消えていく。それを見送った後、私たちはふっと息をついた。
「……一瞬、間違えそうになっただろ」
隣に立っている初瀬くんが、ぼそりと呟く。
「だって、まだ慣れないんだもん」
膨れながら私が言うと、初瀬くんは、それもそうかと言って微かに笑った。
名字が変わってから一週間。職場でも、佐伯さんじゃなくて初瀬さんと呼ばれるようになった。そのたび、恥ずかしくて照れくさくて、だけど心がぽっと温かくなる。二十年以上共にした名字に愛着がないわけじゃないけれど、これから一緒に歩んでいく証みたいで、くすぐったい気持ちになる。
「さーて、ダンボール片づけるか」
そう言って彼は、今は荷物の巣窟になっているリビングに向かって歩き出す。引っ越し屋さんが帰ってすっかり終わった気でいた私は、ついため息をつきそうになって慌てて飲み込んだ。
さっさと行ってしまった彼を追って、廊下を小走りで駆ける。そして、ぴちりと閉められたドアを開けた瞬間、思わず固まった。曇りガラスのはめ込まれたドアの向こうにいたのは、ダンボールのタワーの中で三つ指をつく彼だった。
カーペットも何もない床の上で正座した彼は、得意満面でこちらを見上げている。上品で奥ゆかしげな姿勢とその表情とが噛み合っていなくて、そもそもそんな格好でいるのが予想外すぎて、気づけば声を出して笑っていた。
「ふふ、初瀬くん何やってるの」
「何って、今日から本格的に新しい生活が始まるんだから、ちゃんと挨拶はしとかないと」
ほら座った座った、と言われ、私も真正面に正座する。足の甲が直に床に触れて、心地よい冷たさが伝わってきた。
「では、改めまして。今日からよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
真面目ぶって言う彼がおかしくて、笑い混じりの声で繰り返す。するとなぜか彼は、はい! と言って右手を上げた。授業中の小学生みたいなそれに、私はまた笑ってしまう。
「はい、初瀬くん」
「はい! 先生にお願いがあります!」
「何でしょう?」
小芝居に付き合って、先生らしく背筋を伸ばして聞けば、彼はそれと言って私の口元を指差した。
「もう名字呼びはやめでお願いします」
知菜ももう初瀬じゃん。肩頬だけ上げて笑う彼は、そう付け加える。名字呼びじゃない呼び方……と考えてわかった瞬間、自分の顔に熱が集まるのを感じた。
「むり!」
「ダメ。一週間は見過ごしたけど、こっから先は無理でーす」
さあどうぞと言わんばかりに、彼が私に向かって両手を広げる。その口元は締まりなく緩んでいて、この状況を楽しんでいることが一目でわかった。
なんだか悔しい。これで言ったらいいなりみたい。そもそも恥ずかしすぎる。けれど、彼の言っていることももっともで……。考えた末に私は重たい口を開いた。
「……道幸(みちゆき)くん?」
「なんで疑問形なんだよ」
そう言って、彼はこぼすように小さく笑う。息を多めに含んだ笑い声は、呆れとまではいかなくても小馬鹿にしてるのがわかって、私は唇を尖らせる。
「じゃあみっちー」
「いや、それはやめて」
真面目な顔で拒否する彼に、私は黙ったままそっぽを向く。大げさに首を振ったせいで結んだ髪の毛先が当たって、彼がうわ! と声を上げた。
「これから初瀬くんはみっちー。はい、決まり」
「いやいや、決まってないからな? というか、なんか起こってる?」
声に少しだけ焦りが滲んでいる気がして、私は横目でちらりと彼の方を見る。彼は、床に手をついてこちらに身を乗り出すようにしていた。
「……自分が普通に名前呼べるからって調子乗っちゃってさ」
「何? ひょっとして悔しいの?」
知菜、とこれ見よがしに名前を呼ばれる。さっきまでの慌てた顔はどこへやら。夏が近づいてほんのり日焼けした顔には面白がるような笑みが浮かんでいて、ますます腹立たしくなった。
「そうだったら?」
口から出た声は拗ねているみたいに聞こえて、言ってしまってからしまったと思った。案の定、彼の口元は益々緩む。
「知菜ってほんと負けず嫌いだよなー。そのくせ、不器用で要領悪い、変なとこで照れる」
「うるさいな、もう!」
「仕方ないから、もうちょっとだけ猶予あげるよ」
自主練でもして頑張りな。笑い出す一歩手前みたいな声で言って、彼はおもむろに立ち上がる。そしてこちらに背を向けると、手近なダンボールを開け始めた。
私のことはすっかり放って、手際よく荷物を整理していくその大きな背中を睨みつける。けれど、それには気づかないのか、彼は機嫌良さげに手を動かしたままだ。
「知菜、これってどこに置く?」
耳をすませば鼻歌でも聞こえてきそうな声で、彼が聞いてくる。少し高めに上げた手には、濃い紫色のアルバムが握られていた。
テレビ横の本棚にと答えかけた時、ふとある考えが浮かんで私は言葉を止めた。一度だけ深呼吸をして再び口を開く。
「テレビの脇の本棚に入れてね、道幸」
背中を向けたまま返事をして、彼は体のすぐ脇の床にアルバムを置く。そしてたっぷり一拍を間があって、勢いよく振り返った。その顔は、トマトみたいに真っ赤に染まっていた。
「あれ? どうしたの?」
道幸。仕返しに強調して名前を呼ぶ。鯉みたいに口をぱくぱく開けたかと思うと、彼はぷいと横を向いた。
「……やっぱいい」
「あれれ? ひょっとして照れてる?」
「照れてないし」
「うっそだー照れてる照れてる」
「照れてないから!」
ほら、さっさと片付けする! 叩きつけるように言って、彼は立ち上がる。背中を向けられたせいで顔は見えないけれど、髪の間から覗く耳が赤く染まっていて、つい笑みが浮かんでしまう。
「あ、笑っただろ」
「笑ってないよ?」
「いやいや、声震えてるからな?」
「気のせい気のせい。早く片付けするんでしょ?」
前に回り込んで、また彼の名前を口にする。もう三回目になったそれは、それでもまだお互い気恥ずかしくて、二人どちらからともなく顔を見合わせて笑った。