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笑っちゃうような恋文を

拝啓

 なんて書いてから、堅苦しすぎるなと思った。けれど、紙を変えるのも手間だからこのままいくことにする。あまり気にしないでくれ。

 こうして君に手紙を書くのは初めてかもしれない。いや、恋文といった方が合っているな。そういえば、あの事件を覚えているだろうか。妻に見つかったら事だと言う朝倉に、飲み屋の子からもらった恋文を押しつけられた時のことだ。背広の内ポケットに入れたままにしてしまっていて、それを君が見つけたんだった。あの時も、君は何も言わなかったな。いつも通りに振舞ってくれていた。だが、それでもどこか不安げで、何かに怯えているようで、私は何かしてしまったのかと頭を悩ませた。理由がわかった時は、自分の迂闊さを呪ったし、朝倉を殴りつけてやろうかとも思った。

 あれほど焦ったことは、後にも先にもあの時だけだったよ。大げさだ、と今思っただろう? 私もそう思う。けれど、間違いなく本当のことなんだ。

 あの時は、仕事中も食事中も寝る時でさえも、とにかくずっと君のことばかり考えていた。君がいなくなるかもしれない。そう思うと、何も手につかなかったよ。それは、実を言うと今もあまり変わっていない。玄関扉を開ける時の気持ちも、おかえりと出迎えてもらえた時の気持ちも、君は知らないだろう。もしも気持ちが表情に直結してしまうのなら、私は羞恥で溶けて消え失せてしまうよ。

 なぜ君のことをこんなにまで思うのか、正直自分でもよくわかっていない。言ったことはあっただろうか。好きな女性は、と聞かれた時、私はいつも、自分の前を歩く女性と答えていた。はきはきしていて、一人で凛と立っている人。そういう人が好きだとずっと思っていた。だから、お見合いの時、すぐに断ろうと思っていたんだよ。

 君はおしとやかという言葉を形にしたような人で、私の前を歩くなんて以ての外だと思う人だ。一人は慣れているだろうけれど、本当は誰よりも人を焦がれてやまない人でもある。つくづく、私の好みから離れている。なのに、どうしてこんなに愛しく思うんだろうね。君と出会って、私は後ろから柔らかに包まれる喜びを知ったよ。

 君がいないと生きていけない。そんなことはないと思う。人は、大事な存在ひとつ失くしたぐらいで死んだりしない。そういう、薄情でしぶとい生き物だ。けれど、君を失くしてしまったら、私は昼夜問わず、人目もはばからず泣いてしまうと思う。泣いて泣いて、涙が止まらないから外へ行くことなんてできなくなって、普通の生活なんて送れなくなるだろうね。待つのは社会的な消滅だ。背広姿が好きと言ってくれた君のことだ、そんな風に私がなるのは本意ではないだろう? だから、どうか私より長生きをしてくれ。でも、君は寂しがりだから、なるべく早くこっちに来てくれ。そうじゃないと、私も恋しくて困る。

 朝倉が、まだかまだかとせっついてきている。お前も書け、なんて自分から言っておきながら本当に勝手な奴だ。酔いも回ってきたことだし、仕方がないからここでペンを置くことにする。一週間の里帰りは、思いの外堪えた。早く明日になって君が帰ってくればいいのにと思う。

 

 

 

 ――――――――――

 

 風が若葉を揺らしているような笑い声が聞こえ、尚久(なおひさ)は新聞から顔を上げる。音を辿っていった先には、居間でこちらに背を向けて座っている菫子がいた。尚久は、読みかけの新聞をテーブルの上に置き、椅子から立ち上がる。その拍子に、板張りの床が小さな悲鳴をあげた。

「菫子?」

 

 勝手場から居間へ行った尚久は、薄桃色のカーディガンに包まれた背中に声をかける。菫子は、はい、と瓶詰めの金平糖を揺らしたかのような声で応える。体ごと振り返った彼女を見て、尚久は切れ長の目を見開いた。そして少しして、太い眉と眉の間に深い皺をつくる。

 

「おまえそれ……

 腹の底から響くような声で尚久は言う。その視線の先に、自身が手にした便箋があることに気づいた菫子は、皺の目立つ口元に笑みを咲かせる。

 

「ふふ、懐かしいでしょう?」

「捨てろと言ったはずだが?」

「いやですよ。あなたがくれた大事なお手紙ですもの」

 そう言って、菫子は便箋へと視線を落とす。時間が経ってあちこちが変色したそれにはくっきりと折り目が入っていて、何度も開かれたことを物語っている。

 

……そんなの酔っ払いの戯言だ」

 

 不貞腐れたように言って、尚久は少し離れたところに腰を下ろす。それを見た菫子は、くすりと、またひとつ笑みを落とす。

 

「大事な大事なお手紙にそんなこと言わないでくださいな」

 

 長年の家事で皺くちゃになり、血管の浮き出た手で便箋の表面に触れる。愛おしむような菫子の手つきを横目に挟み、尚久はふん、と鼻息を鳴らした。

 その手紙は、今から三十年以上は前、日頃の飲み屋通いを妻に咎められ、機嫌直しにと隣で恋文を書き始めた悪友に、見てないでお前も、と言われ書いたものだった。

 書いたはいいものの、酔いが覚めて読み直してみると途端に恥ずかしくなり、後で捨てようとポケットに入れたが、例のごとく忘れ、菫子の手に渡ったものだ。余程思い入れがあるのか、菫子は折に触れて取り出しては読み返しており、その度に尚久は、きちんと捨てておくんだったと後悔している。

 

「そんな面白くもなんともないもの捨てろ捨てろ」

 

 再び読み返しだした菫子に、尚久はぶっきらぼうに言い捨てる。菫子は、嫌ですよと笑みを滲ませた声で応える。

 

「おもしろいですよ。普段こんなこと考えてるんだなというのがわかって」

 あなた、何も仰ってくださらないんですもの。そう続けた菫子に、尚久は、嫌味かと吐き捨てる。それが照れ隠しであることを知っている菫子は、息を多めにはらんだ声で笑う。

 

「朝倉さんに感謝しないといけませんね」

「やめとけ、また調子に乗るぞ」

 

 還暦を過ぎても一向に落ち着きを見せない悪友を思い出し、尚久は吐き捨てるように言う。そういえば、あの時結局あいつは仲直りできたんだったな。つくづく口の上手いやつだ。そう思って、唇の端に意地の悪い笑みを滲ませた。

 

「調子に乗ってもらわないと困りますよ。だって、こんな一生の宝物をくださったんですもの」

 

 肉の落ちた胸元に、菫子は手紙をそっと当てる。壊れ物を扱うようなそれに、気恥ずかしくなった尚久は思わず目を逸らす。

 

……大げさなやつだな」

「そんなことありませんよ。わたし、これはあの世まで持って行くって決めてるんですから」

 

 だから、おかんにちゃんと入れてくださいね。絹糸を集めたような声で言われ、尚久は視線を向ける。菫子は、雨だれのように目尻を下げて微笑んでいた。それに、三十年以上前のあの日目にした笑顔が重なる。

 

「それは別の人に頼んでおくことだな」

「まあ、意地悪ですね」

「私の方が先に死ぬから仕方ないだろう?」

 

 尚久の言葉に、菫子は垂れた目をぱちくりとさせる。しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間には、また柔らかく瞳を細めていた。

 

「泣いてしまうんでしたものね」

……うるさい」

「ふふ、でも、わたしも置いていかれるのは嫌ですよ。何せ寂しがりなので」

 

 だから、二人で根比べしましょうね。加えられた言葉に、尚久は片側の口角を上げる。

 

「それは長い勝負になりそうだな」

「ええ、わたしたち、二人とも負けず嫌いですから」

 

 小さな唇からこぼれた笑い声を、障子の隙間から入ってきた涼風がさらっていく。陽だまりが笑っているようなそれに、尚久もひとつ小さな笑みをこぼした。

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