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紅い牡丹にさようなら

 その報せが届いたのは、大正七年、薄曇りの空に初雪が舞ったある日の朝だった。

 ぼたん様が消えた、という報せに一族の者は皆呆れ、慌てふためいた。本家の分家の分家と、かなりの遠縁にあたる未散(みちる)の家も例外ではなく、翌日執り行われる会議に列席すべく家の者は急いで支度を始めた。

 忙しく行き来する皆を、未散はぼんやりと眺める。

 彼女の左手の甲に赤い痣が咲いたのはそんな時だった。

 

     ◇

 

 豪奢な扉の前、少女は一つ深呼吸をする。そして、右手を上げて扉を数度叩いた。

 

「英(はなぶさ)さま、朝です。起きてらっしゃいますか?」

 

 返事はない。腕を下ろした少女は、どうすべきかしばし悩んだ末、音を立てぬよう静かに扉を開けた。

 細かな彫刻の施された扉の向こうには、人一人が使うには大きすぎる部屋が広がっている。磨き抜かれた針槐の床を歩き、少女は壁際に頭をつけて置かれているベッドへ近づく。赤い鼻緒の草履が乾いた音を立て、木綿の着物の上で足取りに合わせて割烹着の紐が揺れた。

 天蓋付きの豪奢なベッドは、敷布が乱れているだけで誰の姿もなかった。けれどそれは予想していたのか、少女は驚く素振りも見せずベッドの左脇を覗き込む。そこには、一人の男性が横たわっていた。

 肩まである月白の髪を床に散らした男性は、浴衣に包まれた体を丸めていた。血管が透けそうなほど薄い瞼は下ろされていて、目の形を伺うことはできない。

 その姿を見た少女の唇は、優しい形に笑みを作る。そして、床の上で眠る男性の傍に静かに膝をついた。

 

「英さま、起きてください。風邪引いちゃいますよ」

 

 心持ち大きめの声で呼びかける。瞼を縁取る睫毛が微かに震えたが、開かれることはなかった。少女は、男性、英の体を揺り動かそうと手を伸ばす。けれど、思い直してはたと動きを止めた。触れることのなかった腕は下へと降ろされる。

 

「英さま」

 

 今度は先程よりはるかに大きな声で呼びかける。

 暫しの沈黙の後、薄い唇が僅かに開き、低く唸るような声が飛び出た。丸まった体が更に丸められる。そして、長い睫毛を震わせながらゆるりと瞼が上がった。

 青白い瞼の下から現れたのは、水を張ったように澄んだ赤い目だった。はじめは焦点の合っていなかった目は、数度瞬きを繰り返すと確かな光を宿す。それを見ただけで少女は、胸が揺り動かされる気がした。

 

「おはようございます」

 

 とりどりの気持ちが混ざり合って、微笑みながら少女は挨拶をする。英はそれに、おはよう、ぼたんと掠れた声で返した後、再び目を閉じた。

 

 

 左手の甲に咲いた赤い牡丹は、蛇神憑きの証。

 先代ぼたん様の失踪後その痣を継いだ未散は、蛇神憑きとして街の外れにある屋敷に住むことになった。未散の名を捨て、街に繁栄をもたらす蛇神、英のそばに仕えるぼたんとして。そうして早五ヶ月。大正八年の春を迎えた。

 

「もう、一回で起きてもらわないと困ります」

 

 むくれながら少女、ぼたんは言う。食卓を挟んで向かいに座っている英は、ところどころ焦げた朝食の鮭を口に運びながら、首を傾げた。

 

「そんなに何度も起こそうとしてたの?」

「はい! なのに全然起きてくださらないので……

 

 一瞬体を揺すろうとしたぐらいで。そう最後まで言った時、ぼたんはしまったと思った。案の定、英は唇にこそ笑みを湛えてはいるものの、その目からは圧力を感じた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 ぼたんは思わず小さな声で謝る。英はそれに微笑みだけを返し、箸を持つ手をまた動かし出した。

責められなかったことに胸を撫で下ろしつつ、ぼたんは気をつけようと心に決める。彼の体に触れない。それは、ここで何よりも気をつけねばならないことだった。

 

「ぼたん」

 

 心の中で自分に言い聞かせていたぼたんは、名前を呼ばれて英の方を向く。何でしょう? と尋ねれば、彼は目を伏せたまま冴え返った声を発した。

 

「それから、何度も言ってるけど和装はしないで」

 

 落とされた言葉に、ぼたんは目を瞬かせた後、小さな声で返事をした。

 

 

 朝食を済ませたぼたんは、生成りの襯衣と濃紺の洋袴に着替え、掃き掃除をしていた。

 食堂や応接間などがある一階部分の掃除を終え、次は二階に取り掛かろうと玄関口にある広間へと向かう。広間の中央で存在感を放つのは、赤絨毯の敷かれた大きな階段。それを、ぼたんは上って行く。

 丁度踊り場に差し掛かった時、ふと何とはなしにステンドグラスを見上げた。

 幾何学模様のステンドグラスの中央には、深紅の着物を着た長い黒髪の少女と白い蛇が、向かい合うようにして描かれている。束のような長い睫毛を伏せ、憂いを帯びた表情を浮かべる少女は、蝋細工のように美しかった。そして少女のたおやかな手には、一輪の牡丹が咲いていた。

 

「……全然違うな」

 

 不意に出た呟きは、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。

 ぼたん様に選ばれる者は、皆一様に美しい容貌をしていると聞いたことがあった。現に、一度だけ遠目に見た先代ぼたん様も、緑の黒髪が艶やかな整った顔立ちの人だった。だが、自分は……。そこまで考えて、ぼたんは自身の体を見下ろす。目に入ったのは、癖の目立つ亜麻色の髪だった。胸元に垂らしたそれは、一本一本が意思を持っているかのように彼方此方に向き、うねっている。艶やか、などとは到底呼べそうにない。

 

「ほんと分不相応」

 

 ため息混じりに呟きつつ、ぼたんは塵取りを持つ左手を見る。その甲には、牡丹を象った赤い痣が確かに咲いていた。

 ぼたん様の証。蛇神様に選ばれた証。それは、ぼたんにとってかけがえのないものだった。彼の人の傍に居て良いという確かな証であり、自分の存在意義。けれど、時折不安になる。自分に務まっているのだろうか、と。そしてぼたんは、今日何度目かのため息を吐いた。

 

「なーにため息吐いてるの?」

 

 そのとき、突然背後から伸びやかな声が聞こえた。驚いたぼたんは、勢いよく振り返る。そこには、緑青地に麻の葉が描かれた着流し姿の男性が立っていた。

 

「久しぶり、ぼたんちゃん」

 

 絹糸のような金色の髪を日に透かした男性は、碧色の目を細めて笑う。見知った男性に、ぼたんも体に張り詰めた警戒を解いた。

 

「久しぶりって……四日前に来ましたよね? 葵さん」

「ええ、そうだっけ?」

 

 忘れちゃったなあ、と言って葵と呼ばれた男性は頭を掻く。誰よりも聡い彼のことだ。きっと忘れたわけではないのだろう。これが、自分の気を紛らわすための軽口であることをぼたんは知っていた。

 今は人間に擬態しているが正体は妖狐である葵は、英の古くからの友人らしい。蛇神様として英が祀られるようになるまでは、共に悪戯に精を出していたと聞いたこともある。もっとも、汚点だと思っているのか、英は当時のことをあまり話してはくれないが。

気の良い性格の葵は、ぼたんのことを何かと気にかけてくれている。

 

「あ、お揚げがあるんです。よければ如何ですか?」

 

 彼の好物が炊事場にあったことを思い出し、ぼたんは誘ってみる。それを聞いた葵は、切れ長の目を輝かせた。

 

「お、いいねえ! じゃあ早速」

「そいつをもてなす必要なんてないよ」

 

 男性にしては高い葵の声を遮る、清かな声が響く。ぼたんは、声が聞こえた階上へと顔を向ける。三つ揃えのスーツを着た英が、丁度二階から降りて来ているところだった。

 

「ひっどいなー、はなちゃん」

「うるさい。あと、その呼び方はやめろ」

 

 不服げに言う葵を英は一睨みする。その態度に葵はまた文句を言っていたが、何処吹く風とばかりに聞き流し、英は踊り場へとやって来た。

 

「どこかへおでかけですか?」

 

 いつになくきっちりとした服装を見て、ぼたんは尋ねかける。それに英は、ちょっとね、と曖昧に返した。

 

「お土産は何がいい?」

 

 なんてことない言葉。けれど、ただそれだけでぼたんの心には花が咲く。頬が緩むのを抑えられないまま、小さな薄桜色の唇を動かす。

 

「もしあれば、金平糖がいいです」

「わかった。じゃあ行ってくるね」

 

 硝子玉を嵌めたような赤目を細めて笑むと、英は革靴の音を響かせながら玄関へと向かって行く。黒い背中に向かって、行ってらっしゃいませ、とぼたんは声をかけた。

 彼を見送ったぼたんは、箒を持ち直し、二階へ向かおうと足を踏み出す。けれど、行く手を阻むように葵はその前に立った。

 

「葵さん?」

 

 どうかしたのか、という気持ちを込めて問いかける。葵は、唇を弓形にして悪戯っ子のように笑った。

 

「ねえ、ついて行ってみない?」

 

 

 最初は固辞していたぼたんだったが、葵の口八丁に乗せられて気づけば彼と共に英の後をつけていた。もっとも、英の姿は道のどこにも見当たらない。けれど、なぜか葵には彼の行き先がわかっているようだった。

 

「ぼたんちゃんは、あいつのどこがそんなに好きなの?」

 

 雲一つない青空の下。太陽に照らされたぼたんは、思わず数回くしゃみをした。すみません、と一言断った後葵を見る。頭一つ分は高い位置にある顔には、愛嬌のある笑窪ができていた。

 

「急にどうしたんですか?」

「そういえば聞いたことないよなーって思って」

 

 知りたくなっちゃった。葵は、あっけらかんと言って笑う。言おうか言うまいか暫く悩んだ末、ぼたんは徐に口を開いた。

 

「たぶん、私はあの人に助けられたんです」

「あいつに?」

 

 怪訝そうに葵は尋ね返す。眉間に寄った皺を見たぼたんは、苦笑しながら、はいと答えた。

 

「私、異国の血が混ざってるんです」

 

 葵から視線を外したぼたんは、自身の髪へと目を落とす。癖の目立つ髪を右手で一房取って、細っそりとした指に巻きつける。色素の薄い髪は、白い指の中でもそれほど目立たない。

 

「阿蘭陀、でしたかね? とにかく父がそちらの方らしくて」

 

 血筋を絶対とする一族。それは、分家の分家という遠縁でも変わらなかった。異人と駆け落ちした挙句出戻ってきたぼたんの母は、家中で痴れ者とされ、冷たく当たられていた。半分異国の血が入ったぼたんはその母以上に。

 

「母が幼い時に死んで、それからはずっと空気のように扱われていて。だから、この痣ができた時、本当に嬉しかったんです」

 

 髪から指を離したぼたんは、左手を体の前に持ってくる。白い甲の中で目を引く赤い牡丹の痣を見て、目元を緩めた。そして、その痣を愛おしそうに右手で撫でる。

 

「じゃあ、自分を選んでくれるなら、別に英じゃなくてもよかったってこと?」

 

 表情を欠いた声で葵が聞く。立ち止まった彼に合わせてぼたんも足を止める。横を向けば、彼はいつになく真剣な顔でぼたんを見つめていた。

 

「そうですね。きっかけは。でも、きっともう英さまじゃないとだめなんです」

 

 はにかみながらぼたんは答える。その脳裏には、これまでの日々が浮かんできていた。

 次々と浮かんでは、泡のように消えゆく記憶たち。それは、言葉にしようとしても喉につかえて声にならない。けれど、それが良いとぼたんは思った。誰にも話さず、ただ自分の中だけで留めておきたいと。

 

「その理由は、教えてくれないんだ?」

 

 葵が聞いてくる。彼は、そんなぼたんの心の動きを悟っているようだった。

 

「はい、内緒です」

 

 はにかみながらぼたんは答える。それに、葵も目元を綻ばせた。

 

 山の中腹に建っている屋敷から坂道をずっと下って、二人は山裾に広がる街へと来ていた。麗らかな春の日差しに誘われたのか、街で一番大きな商店街は、買い物客で賑わっている。

 普段あまり出歩くことのないぼたんは、通りに並ぶ店々を物珍しそうに見回す。その様子を、葵は少し後ろから眺めていた。

 金物屋、八百屋、魚屋、駄菓子屋に、最近増えてきたカフェーにキネマまで。様々な店が軒を連ねている。それらに忙しなく視線をやりながら歩けば、いつの間にか長い商店街を抜けていた。

 ここからどうするのだろう、と思ったぼたんは、後ろの葵を振り返る。彼は、変わらず人好きのする笑顔を浮かべていた。

 

「ねえ、ぼたんちゃん」

 

 高い声が鼓膜を震わせる。顔は笑っているのに、それにはいつもの明るさはなかった。はい、とぼたんは返事をする。

 

「あいつが、何で自分に触れさせないかわかる?」

 

 告げられた言葉に息を飲む。それは、ぼたんの心に常に巣食っている靄だった。

 

「どうして君に洋服しか着させないかわかる?」

 

 黙り込んだぼたんに、葵は更に言葉を続ける。それも、ぼたんの中に澱のように溜まったものだった。

 

……私が、着物似合わないから、とかですかね?」

 

 白い円やかな頬を掻き、苦笑しながら答える。葵は、それに首を横に振った。碧色には、儚げな影が浮かべられている。

 

「この先に行けば、きっとわかるよ」

 

 持て余し気味の長い腕を持ち上げ、葵は前を指差す。その先を追いかければ、二股に分かれた道の右側、次第に細くなっていく小道の向こうに石畳の階段が見えた。両脇に建つ家で日差しを遮られ、そこは昼間だというのに薄暗い。

 

「葵さんは?」

「僕は行かないよ」

 

 行けば意味がなくなるから。小さな声で落とされた言葉に、ぼたんは目を瞬かせる。葵は、微笑を唇のほとりに浮かべた。それは、確かに笑っているというのに、その眼差しのせいで今にも散り落ちそうな花のように見えた。

 ほら、行って。いつになく落ち着いた声音が響く。その声に背中を押されるように、ぼたんは気づけば歩き出していた。

 小道の突き当たりにある階段は、一段一段の幅が広く、傾斜も急なため上りにくい。体力がある方ではないぼたんは、息を少し切らしながら足を進める。

 長い階段を上り終えた時目の前に広がったのは、青々と草の茂った広い空き地だった。

 ところどころ白や黄色の小花が咲いた地面は、土の色が見えないほど雑草が生い茂っている。それだけで、ここが長い間手入れされていないことが窺えた。

 

「ここ……なんだよね?」

 

 きっとわかる。その言葉を信じて来た先にあったのはただの空き地で、ぼたんは狐につままれたような気持ちになる。妖狐は人を化かすのが好きだという。ひょっとして揶揄われただけ? そう思いつつも、期待を捨てきれずに辺りを見回す。瞬間、ぼたんの足元に霧が立ち込めた。

 その霧は、空き地全体を覆い隠すように徐々に広がっていく。体の芯まで凍るような寒気が、触れられたところから襲ってくる。

 

(どうしよう……

 

 何か妖の仕業かもしれない。けれど、取るべき手段は何も思い浮かばず、ぼたんは寒さと恐怖に己の体を抱く。そのとき、地を這うような声が辺りに響いた。

 

 ……カエレ……カエレ……カエレカエレ

 

 淀みなく流れる血も凍りそうなほど冷たい声。けれどその声に、僅かながら見知った清かさが滲むことにぼたんは気づく。

 英さま? そう声に出したのはほとんど無意識だった。

 蛇のように蠢いていた霧が止まる。そしてその霧は、ぼたんから少し離れた一箇所へと集まり出した。集まったそれはやがて人の形を取っていき、霧が全て消えた時、そこには英がいた。

 茫然とぼたんを見つめている英。そんな彼の名前を彼女は呼ぶ。英は、棗のように丸い目を瞬かせた後、長く白い首を傾けた。

 

「どうしてここに?」

 

 尋ねられ、ぼたんは事のあらましを掻い摘んで話す。葵の手引きによるものだと言った時には、英はぼたんから視線を外し、小さく舌打ちをした。

 

「ごめんなさい、その、勝手に来て……

 

 ぼたんは、身を縮こまらせて謝る。それを見た英は、瞳に宿す光を和らげる。

 

「いいよ、別に」

 

 それよりも早く帰ろう。英はそう言って、ぼたんの横をすり抜ける。けれど、ぼたんは白い革靴を履いた足を動かそうとはしなかった。

 

「ぼたん?」

 

 不思議に思った英が振り返り、問いかける。ぼたんは、乾ききっていた喉を潤そうと唾を飲み込んだ。

 

「どうしてここに来ていたのか、聞いてもいいですか?」

 

 英は、赤い目を瞬かせる。いつも柔く笑んでいる唇は、真っ直ぐに引かれたままだった。

 ぼたんの心臓が早鐘を打つ。一秒にも満たない、けれど永遠かと思うような沈黙の後、英は一言来てとだけ言って歩き出した。空き地の奥へと進んで行く黒い背中を、ぼたんは慌てて追いかける。

 ただ広い空き地の片隅。樹齢何百年とも思うほど太い幹をした大木の裏へと回り込み、英は足を止めた。枝を蜘蛛の巣のように空に張り巡らせた木の根元には、石が一つだけ埋まっていた。いつからあるのか、その石は苔が生え、風雨に晒されて丸くなっている。

 

「これは?」

 

 石を見下ろす英に、ぼたんは問う。彼は視線を外さないまま小さな声で呟いた。ぼたんの墓だよ、と。

 ぼたんは目を見開く。目の端でそれを見た英は、ぼたんの方を向き、困ったように眉尻を下げる。

 

「といっても今からずっと前、最初のぼたんの、だけど」

 

 最初の。ぼたんは思わず繰り返す。英は目を伏せ、また墓へと視線を戻した。

 

「私が、この街の守神になったきっかけの人」

 

 長い睫毛の影になった目は、慈しみに満ちていた。それだけで、ぼたんは悟ってしまう。

 

……好きだったんですか?」

 

 英は、ゆっくりとぼたんの方へ顔を向ける。彼は何も発さない。けれど、答えはすでにわかっていた。

 茂る木の葉を散らしそうなほど強い風が吹く。亜麻色の癖毛がなびいて、ぼたんの視界を覆った。

 

 

 

 翌朝。ぼたんは、眠たい目を擦りながら書庫で本の整理をしていた。読み散らかす癖のある英が、手当たり次第に棚に突っ込んだ本を五十音順に並べ直していく。その最中頭に浮かぶのは、昨日空き地で見た彼の表情だった。

 好きだったのか。そう尋ねた時、彼は今まで見たことのない顔をしていた。秘密箱のように、色んな表情が幾重にも重なり、秘められた顔。笑っているようにも泣いているようにも見えた。

 

……ぼたんさま、か」

 

 無意識に声に出して呟いていた。

 会ったこともない人。けれど、彼女を知っている気がした。それは、おそらくあのステンドグラスを見ているからだろうとぼたんは思った。

 癖もほつれもない長い黒髪を持った人。赤い着物のよく似合う人。その手に牡丹を宿す人。彼が自分を選んだ理由が、ぼたんにはわかる気がした。

 ため息が口から漏れる。そのとき、コンッと何かが当たる音がした。音の方を見やれば、そこには跳ね上げ窓があった。

 何だろう、と思ったぼたんは窓に近づく。丁度そのとき窓に石が当たった。またコンッと軽い音が鳴る。

 年季の入った窓を両手を使って開け、顔を出す。下を見れば、碧色の切れ長の目に見つめられた。目の持ち主は、ぼたんに向かって両手を大きく振る。そして、下に来るようにと告げた。

 

「走らなくてもいいよ」

 

 裾に小花の刺繍がされた水縹の洋袴をはためかせ駆けてきたぼたんを見て、葵は声をかける。乱れてしまった髪を整えながら、ぼたんは彼の前に立った。

 

……どうかしたんですか?」

 

 肩で息をしながら問う。葵は切れ長の目を糸のように細め、形の良い唇に微笑を浮かべる。

 

「大丈夫かな、と思って」

 

 昨日のこともあるし。付け加えられた言葉に、ぼたんは瞬きした後、苦笑いを口元に描く。

 

「大丈夫、です。たぶん」

「そっか」

「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

 

 葵は、ぼたんの言葉に首を傾げる。それを了承の意と取ったぼたんは、少し躊躇った後口を開いた。

 

「どうして、あの場所を教えてくれたんですか?」

 

 笑みを深くした葵は、踵で回ってぼたんに背を向ける。緑青の袖が翻って目に鮮やかだった。

 

「ぼたんちゃんは、自分以外のぼたんがどれくらいの期間ここにいたか知ってる?」

「先代は一年、その前は三年と聞いています」

 

 ぼたん様は長続きしない。それは、一族の誰もが知っていることだった。一年もてば御の字。三年もてば長い方。それが、ぼたん様に対する認識だった。

 

「そう。人によってまちまちだったけど、だいたい二年が多いかな? ここに死ぬまでいた人間はいないよ」

 

 ただ一人を除いてね。小さく付け加えられた言葉。尋ねずとも、それが誰かぼたんにはわかっていた。

 

「ぼたん様たちは……

 

 その言葉の先を言う前に、葵は声を発した。向けられていた背中が振り返る。碧色は、無機質な鈍光を帯びていた。

 

「みんな英が食べちゃった」

 

 唇が描く三日月が深くなる。飴玉を含んだような甘い声に、背筋を冷たいものが走る。

 

「冗談ですよね」

 

 葵から目を離さずに、ぼたんは声を発する。それを聞いた葵は、満足そうに無邪気に笑う。

 

「うん、冗談。本当は、あいつがみんな逃してるんだ。お前を食べる、なんて脅かしてさ」

 

 あいつ肉とか大嫌いなのに。葵は、心底可笑しそうに声を出して笑う。ぼたんは、それを見ても笑う気にはなれなかった。疑問ばかりが頭を占める。

 そんなぼたんの様子に気づいたのか、葵は笑うのをやめ、真剣な面持ちで彼女を見る。

 

「どうしてそんなことを? って顔だね」

 

 ぼたんは頷く。葵はそんな彼女を見て一つ笑みを零した後、自分の足元へと視線を向けた。

 

「一番初めのぼたん。彼女とあいつは恋人同士だった」

 

 ぼたんは、胸を細い糸で締めつけられた気がした。わかってはいたこと。けれど、改めて言葉にされればそれは痛みを生む。

 葵は、踏んだり小さく蹴ってみたりして、足元に転がっている小石を弄ぶ。

 

「彼女を娶る時に、一族の長と契約を交わしたんだ。この地を守る蛇神としてここに居続けるって。……たとえ、彼女や契約を交わした長が死んでもずっと」

 

 葵は、小石を草履で踏みつける。地面に擦れる耳障りな音がした。金色の簾から覗く目は、呆れているようにも怒っているようにも見えた。

 

「やがて彼女も長も死んだ。でも、契約は生き続ける。あいつは、一族の中から新たに花嫁を選ぶことにした」

 

 彼女の代わりとして、穴を埋めてくれる人を。その言葉を聞いた時、ぼたんは自分の左手へと目をやった。白い中に咲いた赤い牡丹。綺麗だと今まで思っていたそれは、とても悲しいものに見えた。

 季節が逆戻りしたかのように冷たい風が吹き、二人の髪を揺らす。木立が葉擦れの音を立てる。音の洪水のような中でも葵の声ははっきり耳に届く。

 

「でも、どれだけ似た人を選んでも彼女の代わりにはならない。けど、花嫁は選ばないといけない。それが契約だから」

 

 そこで、葵は一度言葉を切った。石を弄んでいた足を止め、俯きがちだった顔を上げる。碧色は縁を曖昧にし、潤んでいた。

 

「あいつはね、欲しがっているけど、同時に怖がってもいるんだよ。自分に大切な人ができることを」

 

 触れさせない。その理由がはっきりとわかった。

 体に触れることは、その存在を確かに感じること。その人が持つ温もりを知ること。それは、存在する内は心を満たすが、ひとたび失くなれば、埋めようのない寂寥をもたらす。その覚えは、ぼたんにもあった。

 黙り込んだぼたんを、葵は何も言わず見つめていた。

 ぼたんはしばらくして、顔を俯けたまま徐に口を開く。

 

「皆さんに話してるんですか、そのこと」

「ううん、君が初めてだよ」

「なんで……

「君は彼女とあまりにも違うから」

 

 弾かれたように顔を上げる。見上げる碧色は、どこまでも穏やかに凪いでいた。

 

「私、こんな見た目ですもんね」

 

 苦笑いしながら頬を掻く。葵は、それには頷かなかった。何も言わず、ただぼたんを見つめている。

 

「英は、今日もあそこに行ってるよ」

 

 この一週間はいつもそう。明後日が彼女の命日だから。

 行って、とぼたんは言われている気がした。踵を返し、門の方へ向かって走り出す。けれど、途中ではたと思い浮かんで、屋敷の中へと急いで方向転換した。

 

 

 息を切らしながら階段を上る。裾が邪魔をして、走りにくいことこの上ない。けれど、ぼたんは足を止めようとしなかった。

 急な階段を上り終え、空き地に着いたぼたんは、片隅にある大木へと走り寄る。木の影からは、白い頭がちらりと覗いていた。

 

「英さま!」

 

 木のそばまで来たぼたんは、名前を呼ぶ。墓石の前に膝をついていた英は、立ち上がって彼女の方へ視線をやった。その姿を見とめた瞬間、赤い目が大きく見開かれる。

 ぼたんは、肩で息を整えながら英へ一歩近づいた。

 

「何で……それに、その格好」

 

 英は、ぼたんの体を上から下まで見る。ぼたんは、赤い着物を身にまとっていた。

 持たされた中で一番高価な唐紅の着物は、走ってきたせいで着付けが乱れ、裾には所々土埃がついていた。けれど、その見事な赤は失われてはいない。

 

「言ったはずだよ? 着物は着ないようにって」

 

 眦を吊り上げて英は言う。いつになく棘のある声に、ぼたんは身を縮こまらせる。けれど、見つめた目から視線を外そうとはしなかった。

 

「私は、ぼたん様じゃありません」

 

 僅かに掠れた声で紡がれた言葉に、英は目をきょとんとさせる。驚いて無防備になった彼にぼたんはまた一歩近づき、その手を取る。

 

「何して……

「私は未散です!」

 

 振り払おうとする英の手を、ぼたんは両手で必死に握りしめる。半ば叫ぶように言えば、握った彼の手は小さく跳ねた。顔を俯かせ、ぼたんは続ける。

 

「私は、髪だって黒くないし、あんなに綺麗じゃないし、そもそも過ごした時間だってきっとあの人の足元にも及ばない! でも!」

 

 握りしめる手に力が入る。白い指先は、力を込めすぎたせいで仄かに赤く色づいていた。

 

「でも、ここにいたいって思うんです! ぼたん様の代わりじゃなくて、私として」

 

 無我夢中で言ったせいで大きくなった声は、辺り一面に響いた。興奮と酸欠で、ぼたんは荒い呼吸を繰り返す。英は、何も言わなかった。

 しばらくして気持ちが落ち着いてくると、ぼたんの意識は握った手に向き出した。初めて触れた彼の手。それは、氷のように冷たかった。

 英は、まだ何も言おうとはしない。その代わり、手を振り解こうとも。

 怖くなったぼたんは、恐る恐る顔を上げる。青空を背景に見下ろしてくる赤い目と視線が絡む。その目は、微かに揺れていた。

 

……誰に聞いたの?」

 

 ようやく出された言葉に、ぼたんは迷いながらも葵の名を答える。それを聞いた瞬間、彼は顔を逸らして、あいつと低く呟いた。ぼたんは、少し首を竦める。英はそんな彼女を見て、微かに笑った。

 

「ごめん」

 

 そう言って、握られた手を引いて離れようとする。ぼたんは慌てて握り直そうとするが、やんわりと首を横に振られ、動きを止めた。力の抜けた彼女の手から、ゆっくりと英の手が離れていく。

 

「ずっと、彼女の代わりを求めてたんだ」

 

 英は、墓石の前に膝をつく。ぼたんもその隣に並んだ。

 

「そんな人いないなんてわかっていても、生まれた穴は大きくて、探さずにはいられなかった」

 

 墓石へと英は静かに手を伸ばす。その指先は苔生した石に触れかけて、寸前で止まった。小さく握りこぶしをつくって、手は降ろされる。

 

「でも、どんなに似た人でもやっぱり違って。むしろ、彼女との違いばかり浮き彫りになって……だから、もういっそと思って君を選んだ」

 

 ぼたんは苦笑しながら自分の体を見下ろす。胸元に垂らされた亜麻色の髪が目に入った。

 

「全然違いますもんね」

 

 英は小さく頷く。

 

「うん。案の定、君は全然違ったよ」

 

 引っ込み思案だし、お人好しだし、かと思えば母親みたいに口煩いところもある。あと、変なところで不器用。

 

……本当、彼女とはまるっきり違う」

 

 目を伏せ、英は唇に笑みを浮かべる。白い睫毛が頬に影を作った。

 

「お嫌い……ですか?」

 

 躊躇いがちにぼたんが尋ねた時、突然烈葉風が吹いた。癖のある髪を舞い上げ、ばたばたと音を立てて袂を揺らす。慌てて、ぼたんは髪を押さえた。

 

 嫌いではないよ。

 

 風の音と袂が揺れる音が鼓膜を覆う。その狭間で、涼やかな声が聞こえた気がした。英の方を向きながら、ぼたんは聞き返す。けれど、もう一度その言葉が紡がれることはなかった。

 風がおさまり、辺りに静寂が訪れる。英は、墓石を見つめる目を日向の猫のように細める。そして、地面に手をついて立ち上がった。

 

「帰ろうか。……未散」

 

 座ったまま不思議そうに見上げるぼたんに、英は手を差し伸べながら言う。最後に小さく付け加えられた名前に、未散は花が綻ぶように笑った。

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