
あいもあまいも
わたし、結婚が決まったの。
誰もいない空き教室に響いた声。夏空を思わせる明るい笑顔が絶えず浮かぶ顔には、隠しきれない影が落ちていた。
一瞬、言葉がうまく理解できずに、芳乃は固まってしまう。そしてようやく頭が言葉を噛み砕いた時、その桃色の唇から漏れたのは、え? という小さな呟きだった。
向かい合うようにして立つ少女、薫子は、それを聞いてぱっちりとした目を細めた。
「相手は軍人さんなんですって、いいお話よね。お父さまたちもとても喜んでくださってるの」
願ってもない縁談よ。そう言って薫子は、体の前で量の手のひらを合わせる。ささくれ一つ、傷一つない綺麗な白い手は、彼女が良家の子女であることの何よりの証だ。けれど、今はその証が彼女を縛る枷のように芳乃には見えた。
「それでいいの? 薫子さん、お慕いしている方がいらっしゃるのに……」
気になっている方がいるの。そう教えてくれた薫子の顔が、今も鮮明に浮かぶ。自転車を乗り回すような活発な子。けれど、あの時は慈愛に満ちた女性の顔をしていた。幸せそうで嬉しそうで、そんな表情を見ながら芳乃は、願わくばと思ったものだった。
芳乃の問いかけに、薫子はゆっくりと首を横に振る。その顔には、諦めの色が滲んでいた。
「自由恋愛、なんて遠い夢の話だもの。何より、両親には今まで育ててもらった恩があるから」
だからいいの。そう笑う薫子の表情が痛ましくて、芳乃は思わず視線を落とした。榛色の大きな目に映ったのは、体の前で組まれた両手。その手は、何かを堪えるように、勇気を振り絞るように、色が変わるほどぎゅっと力が込められていた。
「でもね、ひとつだけやっておきたいことがあるの」
ぽつりと落とされた小さな声。それに、弾かれるように芳乃は顔を上げる。見えたのは、変わらず、泣き出しそうな顔で微笑む薫子だった。
芳乃は、手紙を手に、学校からほど近くにある眼鏡橋の上にいた。日が沈み始めた橋の上は、帰りを急ぐ人がぱらぱらと通っている。そんな中、芳乃はある人物を探していた。
何度か薫子とともに見たその人の特徴を思い浮かべながら、行き交う人を見つめる。そうしてしばらく経った頃、ようやくお目当ての人が姿を見せた。邪魔にならないよう欄干に寄っていた芳乃は、慌ててその人物に近寄る。
「すみません!」
突然目の前に飛び出してきた芳乃に、その人は肩を飛び上がらせる。そして、訝しげに彼女を見た。
「あの、何か?」
「急にごめんなさい。受け取って欲しいものがあるんです」
芳乃の言葉に、男性は首を少し傾かせる。帝国大学の制服から感じる真面目そうな印象の中で、その仕草は幼く光った。
きっとこういうところに惹かれたのだろうな、と思いつつ、芳乃は手紙を差し出す。それを見た男性の顔に、一気に朱がさした。
「え! あの、」
人目を確認するように、きょろきょろと辺りを見回す男性。そんな彼の手に、芳乃は手紙を押しつける。
「私の友人からなんです。その、事情があって直接は渡せないからと……」
その言葉に浮かぶ人がいたのだろう、男性は彷徨わせていた視線を手紙へと向けた。淡い檸檬色の手紙に真っ直ぐ向けられた目。そこに宿る人が、どうか彼女であるようにと芳乃は思った。
「それでは」
男性の手からそっと手を離す。手紙は、まるでそこにあることが当然のように、しっかりと馴染んでいた。
履いたブーツが街に音を響かせる。石畳を打つ音は、重たく、地面深くまで沈んでいきそうだった。
橋から少し行ったところ、川のほとりに植えられている柳の下。あらかじめ決めておいた場所で、薫子は芳乃を待っていた。行き交う人の中から芳乃の姿を見つけると、薫子は顔を綻ばせる。
「ありがとう、大丈夫だった?」
不安と興奮が入り混じった表情で、薫子は芳乃を見つめる。それに、芳乃はひとつ大きく頷くことで返した。薫子の顔に、安堵の色が満ちていく。
「よかった……ごめんなさいね、変なことを頼んで」
「そんなこと。でもよかったの? 私が渡したので」
そう尋ねた声に、薫子は笑顔で頷いた。先程までとは違い、その笑顔はどこか晴れやかだった。
「もちろん。だって、結婚が決まった女子が恋文を渡しなんて、知られたら一大事ですもの」
だから本当にありがとう。そう言って、薫子は深々と頭を下げる。それを見て、芳乃は慌てて頭を上げるように言った。
薫子の頼み。それは、想い人に手紙を渡してほしいというものだった。自分の立場上、直接渡すことはできない。けれど、返事なんていらないから想いだけでも伝えたい。それが彼女の願いだった。
顔の脇の長い黒髪を押さえながら頭を上げた薫子は、芳乃を見て笑った。
「もう、なんで芳乃さんが泣いてるの」
「泣いてないもん」
目が潤んでいるのは気づいていた。涙を堪えようとしているせいで、鼻の奥が痛むのも感じていた。それでも、泣いてはいなかった。今、誰よりも泣きたいのは自分じゃないとわかっていたから。
薫子は、母が我が子を見守るような目を芳乃に向けていた。行灯袴(あんどんばかま)をたくし上げて走っては、しょっちゅう先生に叱られていた薫子。そんな彼女からは遠く離れた目に、纏う雰囲気に、芳乃は、彼女が一足先に大人になったことを悟った。
「ねえ、もうひとつだけお願い」
「何?」
尋ね返せば、薫子はおもむろに芳乃の手を取った。そして、両手で芳乃の右手を包み込む。
「芳乃さんは、好きな人にちゃんと気持ちを伝えてね」
言える時に、直接。そう言って薫子は、花がほころぶように笑った。以前の薫子が見せていたのが向日葵だとするなら、今のは桜。潔く、どこまでも凛とした笑顔だった。
家に帰った芳乃は、いつもならすぐに自室に行って袴を脱ぐところを、今日はそうせず、ある場所へと向かった。
大きな日本庭園を通り抜けて、敷地の奥へ奥へ。そうして芳乃が辿り着いたのは、総門から遥か彼方、敷地の最奥に建てられている蔵だった。
そびえ立つような白い漆喰の壁は夕日に染まり、威圧感を放っている。けれど、それに怯むことなく、芳乃は蔵戸にかかっている錠前に手をかけた。錆びて黒ずんだせつい錠を左手で持ち上げ、帯に挟んでいた鍵を右手で取り出す。そして、鍵穴へと差し込んだ。
小さな音を立てて解錠される。それを確認した芳乃は、元どおり鍵を帯の間にしまい直し、せつい錠を壁に立てかけた。そして、重たい戸を引いて中へと入る。
蔵の中は薄暗く、灯りを何も持たない芳乃にとっては、天井近くにある窓から差し込む夕日だけが頼りだ。目を凝らし、足元に気をつけながら、芳乃は奥へと足を進めていく。
「沙成(さなり)、いるんでしょ?」
しばらく進んだところで、芳乃は空中に向かって呼びかけた。芳乃以外誰もいない薄暗い蔵。けれど、少しの沈黙の後、ビードロを吹いたような澄んだ声が響いた。
「いつもいるみたいに言わないでくれるかな?」
背後から聞こえた声に、芳乃は驚いて振り返る。そこにいたのは、白い髪をおかっぱにした若い男性だった。
淡雪のように白い髪に、生まれてから一度も日に当たったことがないのではと思わせる白磁の肌。長い睫毛に縁取られた目は、椿の花びらを連想させる赤。人間離れした容貌の彼は、暗い蔵の中で体全体が発光していた。
驚きで、大きな目をさらに見開いていた芳乃。しかし、すぐにその目は元に戻った。代わりに、小さな唇を不服そうに尖らせる。
「驚かせないで」
「君が勝手に驚いたんでしょ?」
やれやれと肩をすくめながら男性、沙成は言う。それを聞いた芳乃は、唇を尖らせたまま頬を膨らます。頬袋いっぱいに木の実を詰め込んだ栗鼠のような顔。沙成は、そんな芳乃を見て、けらけらと明るい笑い声を上げた。けれど、何かに気づいたのか、ふとその笑みを引っ込める。
ああ言えばこう言うんだから! と怒っていた芳乃は、そんな沙成に首を傾げる。どうかしたのか、と聞こうとしたそのとき、不意に沙成の手が持ち上がった。そして芳乃の頬に触れようとして、何かを思い出したかのように途中で止まる。
「もしかして泣いたの?」
開いていた手をきゅっと握りしめて、沙成は腕を下ろす。燃えるような赤い目は、心配そうに芳乃を見つめていた。
「泣いてない」
「そう? でも、目赤いよ?」
何で気づくんだろう、と芳乃は思った。涙なんて一滴も流していない。けれど、いっそ泣いてしまいたくなったのは事実だった。
気になっている方がいると教えてくれた薫子の顔が、鮮明に浮かんで。今日、あの方を見かけたの! と報告してくれた時の幸せそうで嬉しそうな顔が離れなくて。
願わくば、と思っていたのだった。難しいなんてわかっていても。どうか実りますように、と。
芳乃は、注がれる優しい赤から逃れるように、視線を足元に落とす。追ってくるかな、と思っていたけれど、沙成は無理に顔を覗き込むようなことはしなかった。
「……なんで、気づくのよ」
「そりゃ、知り合って何年になると思ってるの?」
思わずこぼれた呟きに返ってきたのは、日だまりを煮詰めたような優しい声だった。口に含めば甘く溶けそうなそれに、芳乃は無意識に下唇を噛む。
「沙成って、本当にずるい」
俯けていた顔を上げながら芳乃は言う。亜麻色の髪が顔にかかって、それを横へと払いのける。見えたのは、鳩が豆鉄砲を食ったような沙成の顔だった。いつも余裕綽々とした彼にしては珍しい表情に、思わず笑みがこぼれる。
「ずるい? え、何が?」
「ふふ、なーいしょ」
「ええ何それ」
そっちの方がずるいでしょ。そう言って沙成は、眉間に皺を寄せる。少しだけ高い位置にあるむくれた顔。それを見て芳乃は、やっぱり好きだと思った。山から水が湧き出るように、春に草木が芽吹くように、まるで、そうあることが当たり前のように。
沙成との出会いは、十年前、芳乃が五歳の時だった。
両親を亡くし、身寄りのなくなった芳乃は、母の実家である華族の蓮見(はすみ)家に引き取られた。しかし、そこで待っていたのは愛情などとはかけ離れた生活。外の国の男と駆け落ちした娘を香林家の人々は憎み、忘れ形見であるはずの芳乃にも冷たく当たった。
些細なことで折檻を受け、蔵に閉じ込められる日々。そんなある日、いつものように仕置きと称して入れられた蔵で出会ったのが沙成だった。
蔵に取り憑く幽霊だという沙成は、芳乃が閉じ込められるたび話し相手になってくれた。そうするうちに仲は深くなっていき、閉じ込められずとも自発的に蔵を訪れるようになっていった。
何がきっかけだったのかはわからない。いや、ひょっとすると確かな理由などなかったのかもしれない。滴る雨が土に溜まるように、ほんの小さなことが積み重なって、気づけば愛しさへと変わっていた。
それは、淡いあわい片想いだった。夕空、山の端に滲む藤色のように柔らかで、水面に浮かぶ気泡のように危うい、そんな恋だった。
「海藤(かいどう)のお嬢さんが結婚するそうだな」
夕食の席で、芳乃の祖父が唐突に口にした。
相変わらず耳の速い人だと思いながら、芳乃は食事をしていた手を止め、はい、と返事をする。
「ちょうど良い頃合いだ。お前にも話しておこうと思う」
そう言って祖父は箸を一旦置き、芳乃へと視線をやった。睨みつけるような鋭い目に、芳乃は体を固くする。そして、告げられた言葉に、芳乃の心は深い谷へと突き落とされた。
◇
次の日、女学校から帰宅した芳乃は、何をするでもなく窓辺に立っていた。窓の向こうでは、昼過ぎから降り出した雨が今も続いている。猫の毛のように細い雨は窓を濡らし、外を見えなくしていた。
道宮の嫡男との見合いが決まった。
昨晩、祖父の放った言葉が、何度も頭の中で繰り返される。その度、芳乃の心に暗く重たい靄がかかった。
見合いとは言っても、はなから婚約することが決まっているようなものだ。海運業で名を挙げた道宮家は、新興財閥として勢力を拡大しつつあると聞いた。対して蓮見家は、華族といえども大正に入って翳りを見せつつある。そんなこの家にとって、この話は願ってもないことだろう。けれど、受け入れることなど、できるはずもなかった。
「……だめだな、私」
蓮見家に引き取られた時からわかっていたことだった。いつか、自分は家に決められた相手に嫁ぐと。それが、色々なことがあったとはいえ、今まで自分を養ってくれた恩に報う唯一の方法だと。なのに、どうしても心が揺らぐ。
ふとため息をついたそのとき、扉を叩く音が響いた。入口の方へ振り向きながら、はい、と返事をする。
音も立てずに開かれた扉。中へと入ってきたのは、大きな化粧箱を抱えた女中だった。
「芳乃様にお届け物です」
女中は、部屋の中央に置かれたテーブルへと近づいていく。そして、横に長い桃色の化粧箱を上に置いた。
何だろう、と首を傾げながら、芳乃もテーブルへと歩み寄る。近くまで来たのを確認して、女中は箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、み空色の洋服だった。白い丸襟と真珠の釦が印象的なそれは、箱の中でお澄まししている。
「これは?」
どういうことかわからず、傍にいる女中に問いかける。すると彼女は、右頬に片手を当て、ゆるく笑んだ。
「道宮のご子息からだそうです。お見合いの日、これを着てくるようにとのことで……」
素敵ですよね、わざわざ贈ってくださるなんて。女中は、ほうっとため息をつきながら羨ましそうに呟く。けれど、芳乃の心は少しも晴れることがなかった。
箱から服を出してみる。それは、ワンピースだった。胸の少し下で切り返しが入れられ、そこからふわりと裾が広がっている。生地はなめらかで光沢があり、いかにも高級そうだった。
「芳乃様の御髪が映えますわ。よほどお慕いくださっているのでしょうね」
憧れてしまいます、と女中は眩しそうに言葉を紡ぐ。それに、芳乃は何も返せなかった。
◇
一日ぶりに蔵を訪れた芳乃を見て、沙成は両眉を下げた。
「何かあった?」
「どうして?」
「だって昨日来なかったから」
「毎日ここに来てるわけじゃないでしょ?」
「それはそうだけど……」
何だか変な感じがする。そう言って沙成は、もう一度、何かあったのかと尋ねかけてくる。
「……何もないわ」
咄嗟に嘘をついた。見合いが決まったのだ、と好いた相手に言える人が一体どこにいよう。
芳乃は、少しでも明るく見えるように意識して口角を上げる。そして、疲れているだけだから気にしないで、と言葉を続ける。けれど、沙成の案じるような視線は変わらなかった。
「嘘、だって芳乃、つらそうな顔してる」
沙成は、荒れ一つない白い手を芳乃へと伸ばす。けれど、彼女の手に触れる直前で止まった。重ねられることのなかった手は、ゆっくりと下へ落ちていく。
「……僕には言えないこと?」
首を傾げた拍子に、白い髪が音もなく揺れる。揺らめく赤い輪郭。唇は弧を描いているのに、それは泣いているように見えた。
芳乃は、何も言えずに俯く。見えた自身の両手は、固く握りこぶしを作っていた。
「……やっぱり沙成はずるい」
搾り出すようにしてようやく出した声は、消え入りそうで頼りなかった。
「うん、ごめんね」
でも、聞かせてほしい。懇願するような、縋るような声。出会ってから初めて聞く声に、胸が締めつけられる。
こんな声を出させたいわけじゃなかった。思わず、作った握りこぶしに力がこもる。そして芳乃は、ゆっくりと顔を上げた。
「私ね、お見合いするの」
沙成の目を真っ直ぐ見て、精一杯の笑顔で告げる。
赤い飴玉のような目が、大きく見開かれる。けれど、それは見間違いかと思うほど一瞬のことだった。
「一昨日おじい様に言われたの。相手は今急成長している財閥の方ですって。とってもいいお話よね」
何でもないことだ。そう聞こえるように、努めて明るい声を出す。可哀想だと思われたくも、同情されたくもなかった。相手が沙成であるなら尚更。
「急に言われたから、びっくりして変な顔になってたのかも。心配かけてごめんね」
「……それでいいの?」
沙成の問いかけに言葉が詰まる。いいよ。そう答えなければいけないのはわかっているのに、声が出なかった。
ふと、沙成の手に目が向く。絹布のように白い手。たしかにそこにある。けれど、触れることも触れられることもできない。それは、彼と芳乃が共に歩むことはない、何よりもの証だった。
「芳乃が望むなら僕は……」
黙ったままの芳乃に、沙成は言葉を続けようとする。けれど、それは途中で止まってしまった。
言おうか言うまいか迷っているのか、沙成は黙って俯く。
「沙成?」
芳乃が尋ねかけたそのとき、沙成はぱっと顔を上げた。そして、にこりといつものように微笑む。
「ごめん、また明日、ここに来てくれる?」
どうして、とは聞けなかった。その目は、これ以上踏み込んでくれるなと語っていた。
聞きたいこと、気になること、全て飲み込んで、芳乃は一つ頷いた。
◇
「見合いの日取りが決まった」
次の日は日曜日で、全員が揃って遅めの朝食を取っていた。その席で、不意に祖父がそう言葉を落とした。
「あら、いつになったんです?」
テーブルを挟んで、芳乃の斜向かいに座っている叔母が尋ねかける。それに、祖父は十日後だ、と返した。
あまりにも早い日程に、芳乃は思わず手にしていたフォークを取り落す。銀のフォークは、皿に当たって鋭い音を立てた。向かいに座る従妹の虹子(こうこ)に嗜めるように見られ、芳乃は小さな声で謝った。
「随分急なんですね」
同じように感じたのか、驚いたように叔母は言う。それに、祖父は鼻を鳴らした。
「早く会いたいとのことでな。こちらとしては願ったり叶ったりだが」
こんな娘のどこがいいのやら。そう吐き捨てるように続ける。テーブル中に忍び笑いが広がり、芳乃はたまらず顔を俯けた。
「人に取り入るのがお上手なのね、さすがだわ」
芳乃にだけ聞こえる声で虹子が呟く。嘲りを含んだ声に、体中が熱くなるのを感じた。
食事を終えた芳乃は、逃げ出すように部屋を出た。そして、そのまま蔵へと向かう。
いつもなら、鍵を開けるとすぐに戸を引いて中へと入る。けれど、今日は一度大きく息を吐いてから戸を開けた。古びた音を立てながら開く戸。それは、なぜかいつもより耳についた。
「早かったね」
いつもより明るい蔵の中。入ってすぐのところに沙成は立っていた。芳乃の姿を認めて、その端正な顔に笑みを広げる。
「沙成、あの……」
「こっち」
昨日の言葉の続きを尋ねようとしたが、それを途中で遮って沙成は芳乃に背を向けた。そして、蔵の奥へと歩いて行ってしまう。
一瞬、どうしようかと芳乃の頭の中に迷いが生じる。けれど、彼の後を何も言わずついて行った。
物と物の間を通り抜けて奥へ奥へ。今まで蔵の中ほどまでしか行ったことがなかった芳乃は、物珍しさで辺りを見回す。そうする内に、気がつけば蔵の奥まで来ていた。
「これを見せたかったんだ」
前を歩いていた沙成が立ち止まり、芳乃の方を見返る。彼が半身になったおかげで見えた先には、くすんだ木箱があった。床に直に置かれた木箱を見て、芳乃はその異様さに息を飲む。
年季が入っていることをうかがわせる、杉でできた古びた箱。その蓋と身の境目にはお札が貼られていた。普通の箱とは思えない雰囲気に、芳乃は沙成へと視線を移す。沙成は、読めない笑顔を浮かべて芳乃を見つめていた。
「大丈夫、ただの箱だよ」
「嘘よ、だって……」
そこまで言って、芳乃はもう一度木箱へと視線をやる。一見すると、ただの普通の箱。けれどそこに貼られた一枚のお札が、ただならぬ物であることを予感させる。
「ねえ、開けてみて」
聞こえた声に、芳乃は驚いて勢いよく横を向く。相変わらず沙成は笑っていた。いつもと同じはずの笑顔が、どこか妖しく視界に映る。
「どうして?」
「どうしても。その必要があるんだ」
お願い。そう言った沙成は、笑っていなかった。吸い込まれてしまいそうなほど深い色の目で、真っ直ぐ芳乃を見つめている。
いつもとは違う彼の纏う雰囲気に、芳乃は目を逸らす。そして、たっぷり時間をかけた末、慎重に箱へと近づいた。
傍に膝をつき、しげしげと眺める。間近で見る箱は、普通とは違う何かを発しているようにやはり思えた。
確認するように、首だけで沙成の方を振り返る。榛色に見つめられた沙成は、彼女の背中を押すように大きく頷く。それを見て芳乃は箱に再び向き直り、ゆっくりとお札を剥がした。
蓋を開けた先にあったのは、白い蛇の体だった。古びた箱とは対照的に、その白い鱗は艶々と輝き、開いたままの赤い目も澄み切っている。けれど、なぜか生きている感じはしなかった。
これは何なのか。尋ねようと沙成を振り返る。けれど、そこにいたはずの彼はどこにもいなかった。
疑問が頭の中を覆い尽くす。立ち上がり、彼の名前を何度も呼びながら辺りを見回すと、ここだよ、と足元から声がした。
耳慣れた澄んだ声に、芳乃は声の方へと視線をやる。そこにあったのは、開いたままの木箱だった。けれど、先ほどと違うのは、力無く横たわっていたはずの白蛇の体が、起き上がっていたこと。そして、煌々と輝く赤い目で芳乃を見つめていたことだった。
「ここだよ、芳乃」
もう一度、沙成の声がする。それは、この白蛇から聞こえていた。
「……沙成、なの?」
白い頭が、縦に動く。それから白蛇は、体をくねらせて箱から出て来た。足元に近づいて来た蛇に、芳乃は思わず体を後ずらせる。
「酷いなあ」
芳乃の反応に、沙成は笑みを含んだ声で言葉を漏らす。だって、と芳乃が反論すれば、しばらく間があった末に、彼はよしっと呟いた。次の瞬間、その体は真っ白な煙に包まれる。
煙が消えて現れたのは、いつも通りの沙成だった。否、正確には完全に「元どおり」ではなかった。いつも淡く発光していた体はその光を失くしていた。
「ああ、やっぱりしっくりくるな」
沙成は、自分の手を見ながら、感触を確かめるように閉じたり開いたりする。その薄い唇は、三日月を描いている。
「……沙成?」
震える声で、恐る恐る呼びかける。すると沙成は、落としていた視線を芳乃へと向けた。鈍く輝く赤い目が、芳乃を射抜く。
「ありがとう、芳乃。これで、本当の僕になった」
「本当の沙成?」
思わず聞き返せば、沙成はそう、と小さく頷いた。そして、これまで黙っていた自分のことを話し始める。
沙成の正体、それは白蛇の妖怪だった。数えるのも嫌になる程遠い昔に捕まえられ、この箱に封印されていたのだという。それもすべては、家運を繁栄させる力を持つとされる白蛇の妖怪を、この家にとどめ置くため。
「だから僕は、この蔵から離れることができなかった」
でも、今は違う。そう沙成は続ける。そして、おもむろに芳乃へと手を伸ばす。
いつも触れることのなかった手。けれど今回は、きちんと芳乃の手に重ねられた。金氷のように冷たい手が、芳乃の手を握りしめる。
「こうやって、芳乃に触れることも、それから……この家を潰すことだってできる」
初めて感じる沙成の体温に、喜びを隠しきれず口元が緩む。けれど、その言葉を聞いて、芳乃は笑みを引っ込めた。
真意を探るように赤い目を見つめる。すると沙成も、黙って芳乃の目を見返した。いつになく真剣な顔に、芳乃の鼓動が跳ねる。
「そうしたら、お見合いもなくなるでしょ?」
首を傾けながら沙成は言う。浮かぶのは、作り物めいた綺麗な微笑。それから目を逸らすように、芳乃は顔を俯かせた。
「そんなこと……」
望まない、という言葉は、最後まで声にならなかった。空いていた左手で、沙成に頤を掴まれたからだ。そして、そのまま軽く持ち上げられ、無理やり視線を合わせられる。澄んでいるはずの目は、暗く翳っていた。
「どうして? あいつらにされたこと、忘れちゃったの?」
沙成はそう言うと、頤から手を外し、芳乃の左腕を掴み上げる。力の強さに思わず顔をしかめるが、沙成は手を離そうとはしない。
持ち上げられたことで着物の袖が落ち、芳乃の白い腕が露わになる。手首の少し下から肘にかけてある青紫の線。いつもは服で隠されている痕が、眼前に晒される。
「覚えてないわけないよね? あんなに酷いことされたんだから」
その言葉に、芳乃の脳裏にこれまでの記憶が去来する。
仕置きと称して振るわれた暴力の数々。いずれ嫁に出す体だというのを考えて、いつも痕が残らないギリギリを攻めてこられた。だから、加減を間違えてついた左腕の鞭の痕しか残っていない。それでも、芳乃の心には、あの時の痛みが、苦しみが、悔しさが巣食っている。ぶつけられた侮蔑にまみれた言葉の数々だって、忘れてはいない。
「ねえ、一言口に出すだけでいいんだ」
この家を壊せって。
耳元に顔を寄せられ、囁かれる。それは、ひどく甘美な誘惑だった。
顔を離した沙成は、芳乃の目を正面から見つめる。底の見えない赤い目。何もかも吸い込んでしまいそうなそれに、芳乃の首は縦に動きかける。けれど、すんでのところで思いとどまった。
「……だめよ、沙成」
鼻と鼻が触れそうなほど近い距離。そこから、一歩芳乃は後ろに足を引く。
一度、その真紅から下に視線を外す。そして、深呼吸をしてから、また沙成の目を見た。
溶け込んでいた暗い色は薄まり、赤い目はゆらゆらと揺らめいている。母親に置き去りにされた子どものようだ、と芳乃は思った。行き場所を見失ったような、心細そうな顔。そんな彼に、芳乃は微笑みかける。
「大丈夫。私は大丈夫だから。だから、お願い、そんなこと言わないで。沙成にそんなことして欲しくない。だって」
そこまで言って、芳乃は続く言葉を飲み込んだ。
優しい沙成のことだ。きっとこの想いを知れば、何とかしようとするだろう。それこそ、先ほどの提案のように、自らの手を汚すことすら厭わないかも知れない。それだけは避けたかった。彼の枷にだけはなりたくなかった。
「芳乃、僕は」
「ありがとうね、沙成」
今笑わないでいつ笑う。そう自分に言い聞かせ、芳乃は無理やり笑顔を作って告げる。きっと、上手に笑えたはずだ。その証拠に、沙成はそれ以上何も言わなかった。
◇
あの日を境に、沙成は蔵から姿を消した。
毎日蔵へと通い、何度も名前を呼びながら隅から隅まで彼を探した。けれど、その白い姿を見つけることはできなかった。
きっと、彼は自由になったのだ。芳乃はそう思った。
自分を閉じ込めていた檻から出て、彼は外の広い世界へと旅立った。暗く、乾いた場所から、眩い光に溢れた世界へ。もう彼を縛りつける物など何もない。
これでいい、これで。目を閉じ、言い聞かせるように唱える。それは、あの日から何度もやっていることだった。
「芳乃さん、どうかされましたか?」
上から声が降ってきて、芳乃は目を開ける。見上げれば、頭一つ分高い位置にある久晶(ひさあき)の顔が見えた。
「ごめんなさい、大丈夫です」
芳乃は彼に向かって微笑みかける。久晶はそれを聞いて、顔を前へと向け直した。
迎えた見合いの日。芳乃と義両親は、朝から道宮家を訪れていた。
両親を交えての食事会を終えると、あとは若いお二人でということになり、芳乃は見合い相手の久昌と庭を歩いている。秋晴れの空のもと歩けば、風に乗ってどこからか金木犀が香ってくる。蜜柑を甘く煮詰めたような甘い香りに、少しだけ芳乃の気持ちは上を向いた。
しばらく、何でもない話しをしながら歩いていると、不意に一歩先を歩いていた久昌が立ち止まった。つられて、芳乃も足を止める。久昌はおもむろに、芳乃の方を振り返る。そして、その体をじっと見つめた。
「あの、何か?」
上から下へ、体を這うような視線に耐えかねて尋ねる。すると久昌は、狐のような顔に笑みを浮かべた。
「思った通り、よく似合うと思いまして」
やはり、その服にしてよかった。そう続けた久昌は、一歩足を踏み出し、距離をつめる。
「あ、このたびはありがとうございました。こんなに上等なものを頂いてしまって……」
「いいんですよ、これぐらい。私は、気に入ったものには労を惜しまない主義でしてね」
さらりと告げられた言葉に、芳乃の顔に困惑が浮かぶ。
「夜会で見かけた時から思っていたのです。こんな稀有な色を持つ女性を、妻にできたらどれほど幸福かと」
骨ばった手が、芳乃の亜麻色の髪へと伸びる。絹糸のような長い髪を一房取った久昌は、片方の口角だけを上げる。
「この髪も瞳も、全て私のものだと思うとたまりませんね」
大切にさせていただきますよ。囁くように落とされた言葉は、芳乃の心に黒いインクを垂らす。
「さあ、行きましょうか」
髪を離した久昌は、そう言って手を差し出す。それは、新しい檻のように見えた。
芳乃は、ゆっくりと手を伸ばす。あともう少しで重なる、と思ったそのとき、突然後ろから肩を掴まれた。そして、そのまま後ろへ強い力で引かれる。
たたらを踏みながら、芳乃は慌てて振り返る。そこにいたのは、三つ揃えのスーツを着込んだ黒髪の男性だった。
見知らぬ姿に、芳乃は首を傾げる。すると男性は、花が割れ咲くように微笑んだ。不思議と、その笑顔は見覚えがあるような気がした。
「どうかしたのか?」
久昌は、怪訝な顔で男性に問いかける。邪魔したことを咎めるような目を向けられても、男性は笑んだままだった。
「奥様がご用事があるそうで、至急戻ってきてほしいと」
この家の使用人なのだろうか。男性は、恭しい態度で答える。それを聞いた久昌は、不服そうに舌打ちをした。
「なら、芳乃さんも連れて」
「いえ、長くなるから久昌様だけで来るようにと。分不相応かと思いますが、私めがお相手をさせていただきますので」
「そうか、じゃあ頼む。……芳乃さん、では少しの間失礼します」
食えない笑みを浮かべながら軽く頭を下げると、久昌は来た道を引き返して行く。竹尺でも入れられているようにピンと伸びた背中が遠ざかっていくのを見て、芳乃は無意識に息を吐いた。
「気が抜けた?」
隣から聞こえた声に、まだ男性がいたことを思い出す。しまったと思い、弁解しようとそちらに顔を向ける。そして、そこにいた人を見て、目を見開いた。
「さ、なり?」
思わず名前を呟く。すると彼は、うん、と頷いた。
黒髪の使用人がいたはずのところに立っていたのは、紛れもなく沙成だった。スーツを着てはいるが、それ以外は見慣れた姿そのもの。
何で? さっきの男の人は? 聞きたいことが次々湧きあがってくる。けれど、その柔らかく光る赤目を見ると、何も言えなくなってしまう。
「驚いた?」
尋ねられて、芳乃は大きく頷く。それを見て沙成は、悪戯が成功した子どものように笑った。
「ごめんね、遅くなって。……ずっと考えてたんだ。何が、芳乃にとって一番いいのか」
沙成は、芳乃の両手を優しく握る。そして、少し膝を曲げて視線を合わせた。
「本当はね、このままでいいのかもしれないと思った。少なくとも君はあの家からは離れられるし、嫁いだ先で幸せな家庭を築けるかもしれない。なら、それが一番だって」
でもね、とそこで沙成は一度言葉を切った。迷っているのか、視線は右へ左へ揺れ動いている。
「……でもね」
一度目を閉じて、沙成はそう繰り返した。そして、ゆっくりと瞼を開ける。現れた赤色は、もう揺れてはいなかった。
「僕はずるいから。やっぱり、君が他の誰かのところへ行くなんて我慢できないと思った。だって、僕は芳乃のことが好きだから」
紡がれた言葉に、芳乃は目を見張る。嘘、と言ったのは、ほとんど無意識だった。
「嘘じゃないよ」
目尻を下げて、困ったように笑いながら沙成は言う。
「何が好きか、なんて言い出したらキリがないけど……たぶん僕はね、君に救われたんだ」
暗いあの蔵で一人きりでいた僕にとって、君と話すあの時間は、何にも代えがたい宝物だった。話し相手になってもらってたのは、僕の方なんだよ。
「そんなこと……」
告げられた言葉に、芳乃は戸惑って言おうとする。けれど、それを沙成は首を横に振って制した。
「そんなことあるんだ。あの時間は、僕にとって支えだった。でも、それだけで君を好きになったわけじゃない」
沙成は、落としていた視線を上げる。榛色と赤色が重なった瞬間、沙成は目元をやわらげた。
「自分の弱さを隠そうとするところ、優しすぎて人のことばっかり気にするところ、小さなことで笑うところ、……実は意外と気が強いところ」
芳乃を作ってる全部が、好きなんだ。
はにかんだ沙成の顔がぼやける。なぜだろう、と思って、芳乃は自分が泣いていることに気がついた。
目の縁から溢れた涙が、頬を伝っていく。できた筋は、空気に触れても温かいままだった。
「……と、ここまでは僕のわがまま。だから、芳乃は気にしなくていいよ」
そう言うと沙成は、繋いでいた手を離す。そして、足を引いて一歩後ろに下がった。突然開いた距離に、芳乃は何も言えず沙成を見返す。沙成は、そんな姿を見て眉を八の字にする。
「芳乃が、選びたい方を選べばいい。どっちでも、僕は君の味方だから」
それだけ言うと、沙成は芳乃に背を向ける。そして、ゆっくりと歩を進めだした。
少しずつ遠くなっていく黒い背中。理解が追いつかず、しばらく呆けていた芳乃だったが、それを見て、慌てて追いかけた。
「待って!」
半ば叫ぶように言って、沙成の上着の裾を引っ掴む。沙成は足を止め、首だけで振り返る。
「そこまで言って逃げるなんてずるい」
自分を見つめる赤色を睨みつける。怒りからか、いつの間にか涙は止まっていた。
「……私、言わないでおこうと思ってた。きっとこれは、沙成を縛りつけることになるからって。でも」
もう自分に嘘はつかない。
凛とした声で、芳乃は言った。
二度と会えないと思って後悔した。物わかりの良いふりをして、受け入れようとしても苦しいだけだった。髪に触れられた時襲った嫌悪感が、差し出された手に触れることを躊躇ったことが、彼じゃないとダメなことの何よりもの証拠だった。
「沙成が好き。もう、ずっと前から。だから、気にしなくていい、なんて言わないで」
攫ってみせるぐらいしてよ。
言葉なんて選んでいられなかった。何も考えず、ただ想いの丈をぶつける。気がつけばまた、涙が零れ出していた。
力の抜けていた手から、上着の裾が離れる。行ってしまう。そう思ったけれど、沙成はただ、体を芳乃の方へと向けただけだった。
「……本当にいいの? 僕は妖怪で君は人間。その違いで、きっとこれから、しなくていい苦労だってすると思う」
それでもいいの? と沙成は芳乃を見つめて問いかける。その顔には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「いいの。もしかしたら、つらい思いをすることも、悲しい思いをすることもあるかもしれない。でも、今沙成を選んだことが間違いだったなんて、思うことは絶対ない」
精一杯の笑顔で芳乃は伝える。彼の心の中の暗雲を少しでも晴らせるように。
「芳乃はやっぱり強いね」
つられるように、沙成も笑みを浮かべる。それは、冬の海に一筋光が差し込んだような笑顔だった。
無言で、沙成は手を差し出す。日差しを受けて白く輝く手。それに、芳乃は迷わず自分の手を重ねた。